土曜日の朝,少し寝坊をした。
起きれば体がいつも以上に痛くて,ああ,寝過ぎて体が凝ってしまった,とアーサーは後悔した。しかし後悔したところで寝過ぎたことは仕方がない。部屋をくるりと見回す。まだ昼前だとは思うが,天気はよくわからない。というのは,カーテンが開いていても目が覚めなかったはずで,今日は雨なのだ。
あめだ。
アーサーはつぶやいた。
つぶやいた声が声になっていたのか,かすれていてまともな音になっていなかったのかは自分ではよくわからなかった。しかしその音を聞きつけて,1kの部屋とキッチンを仕切るはずなのに役割を果たすことなく開け放されたドアの向こうから,いつもの男の声がした。
「あ,起きた?」
なんでいるんですか。
そういえば昔は図書館で向かいに座られるだけでもそんなことを考えたこともあった。いまやそれから一年と少し,彼が部屋にいることにも,自分よりも先に起き出していることにも,何の迷いもなく自分の部屋のキッチンを使っていることにも,疑問を持たなくなってしまった。
慣れだ慣れ,まかりまちがってもそれ以上の感情を認めてやるものか。
「朝ご飯食べる? 卵料理ならすぐ出せるし,サラダは作ってありますが?」
「……ハムエッグ」
「了解」
単語しか絞り出せないが,フランシスがエプロンをしたままの姿で部屋に入ってくるから,しかたがないので体を起こした。まだ寝ぼけて抵抗できないのをいいことに,フランシスは上体を起こしただけのアーサーをぎゅっと抱きしめる。居心地がいいなんて,これもやはり認めてやるものか。その男の背に腕を回して,抱きしめるのだって,反射的なものだ。
フランシスが,おはよ,とほほにキスを落としてくるから,しかたがないので,ん,と答える。少しずつほほをすべって,くちびるに落ちてきそうなくちびるを受け止めようと少しだけ差し出したら,からかうように鼻の頭をかすめたキスに思わず機嫌を損ねる。至近距離で笑ったフランシスは今度こそほんとうにキスをくれた。
彼の朝の習慣に毒されていることは認めてはやらない。
しばらく,そうやってぼんやりしている。ときどき,ベランダの柵を雨がたたく音がする。ふと空腹を自覚して,アーサーはフランシスに抱き留められたまま,はらへった,とつぶやいた。
「色気がないねぇ」
「あった覚えもない」
「よく言うよ」
フランシスはおとなしくベッドから降りた。つられてアーサーもベッドを降りる。朝ご飯,とふらふらとキッチンへ向かうと,そこにはたくさんの梅の実。
「どうしたんだ」
「昨日,食品売り場の方に分けてもらったんだよ」
「へえ」
何の作業の途中かはわからないが,トレイの上にキッチンペーパーが敷き詰められ,所狭しと梅の実が並んでいる。まだ青いその実で何をするのかなど聞くまでもない。
「いつのまにそんなものそろえてたんだ」
「朝,ちょっとスーパーまで」
いくら合い鍵を持たせているとは言っても,そうやってフランシスが買い物に出かけたことすら気づかなかった自分っていったい……とつかの間アーサーは落ち込んだ。氷砂糖,ホワイトリカー,大きな空っぽの瓶。どれも昨日の夜までは自分の部屋になかったはずの物だ。
梅酒を造っていたらしいキットは一度キッチンワゴンの上によけると,フランシスは深めの小さな皿を取り出した。アーサーに出来ることと言えばハムエッグのための卵とハムを冷蔵庫から取り出すこと程度だ。
「いま漬ければ,ちょうどアーサーが20歳になる頃には飲めるのかな」
アーサーはまだ19だった。たまにつきあいで酒をなめる程度に飲むことはあっても,はじめに大きな失敗をしているから積極的に酒に手は出していない。だから,フランシスの言い分は,些か引っかかるものがあった。
「俺が飲むのか?」
「二人で飲もうよ」
またそうして! とアーサーは思わずののしりたくなった。
この男は確証のない未来の話が好きだ。いまだってそんなことを,軽く片手で卵を割りながら言ってのける。二個の卵が,皿のなかで仲良く揺れている。
「……どれくらい先だよ,俺の誕生日って」
「三ヶ月で飲み頃,一年待てばまろやかな味だって」
ホワイトリカーのパックに書いている説明を読み上げながら,フランシスはそれは軽い口調で言った。つまりそれはあと三ヶ月でも一年でもフランシスがここにいるということを当然の前提にしているのだろう。
そんなことを言うフランシスの余裕のある表情を見たくないアーサーは,黙ってフライパンを取り出す。アーサーが出し忘れたバターを冷蔵庫から取り出しながら,フランシスは歌うように言った。
「きっと美味しくできるよ」
何か聞けばあまやかな恋人の言葉以外帰ってこない。温められたフライパンの上を柔らかいバターが滑る。アーサーは敢えて押し黙ったままトレイに並んだ梅を見た。綺麗な球もあればいびつな楕円もあるが,さすがデパートで扱う品だけあって色の悪い物は一つもない。
そしてアーサーはそのたくさんの梅の実が入っていたであろう袋をちらりと見やる。ダストストッカーのふたは開いていて,そんなところで詰めの甘い色男は気づいていないけれども,もらい物などではないことは一瞥すればわかるのだ。だって袋に値段が書いてある。
「じゃあ,楽しみにしてる」
フランシスが支払った梅の実に支払う対価のようなつもりで小さくつぶやくと,フランシスはうれしそうにうなずいた。
ハムを並べ,割った卵を流し込む。
「俺に手伝えることは」
「梅の実のヘタ取り。結構面倒くさいんだよ」
きっとそうして,梅雨の一日は二人の時間に溶けていく。