ちょこん、とアーサーは何も言わずに向かいに座り、頬杖を突いてじっとフランシスを窺った。
彼はまだ、アーサーに気付いていない。読んでいる本のタイトルは窓から差し込む夕陽のせいで逆光になって読めなかった。小さなアルファベットの羅列が辛うじて見え、洋書なのだと言う事だけは何となく分かったがそれだけだ。
いつぞやかアーサーが「軽そうな色」と評したラベンダーカラーのフレームの縁が、夕陽に当たってちらちらと光る。眼鏡の形だけを見るにいかにも彼にお似合いな軽薄な印象を持ったものだが、実際に掛けた姿を見ると寧ろその明るい色はその奥の美しい瞳の色と絶妙な調和を保っていた。その事が、アーサーの胸をざわつかせる。
図書館の奥まったテーブルで、ページの捲る音と、アーサーの密かな呼吸の音だけが響く。
少し息が上がっているのを、アーサーは自覚していた。気付かれてしまうのではないかと思うと緊張してしまうのだ。――更に言えば、目の前の彼の珍しく理知的な姿に、少々興奮もしている。
かさ、とページを捲りながら、不意にフランシスが顔を上げた。ばち、と眼鏡の奥の目がアーサーの顔を捉える。その顔が少なからず驚いていて余計に息が上がりそうになった。ここに暫く座っていたと知れたら、何と言われるか分かったもんじゃない。
「……坊ちゃん、いつからいたの」
「い、今、たった今」
「ほんとに?」
出していたルーズリーフを栞代わりに本に挟みながらフランシスがおどけて問うのに、蚊の鳴くような声でほんとのほんと、と答えた。我ながら、聞くだけで嘘と分かるような声色だ。
「……そ。気付かなくって、ごめんね? アーサー」
腕を伸ばせば届く長さのテーブルの上で、ん、とフランシスが首を伸ばした。柔らかな長い髪が肩で跳ねて、オレンジ色にひらめく。
キスされる、とアーサーは身構えた。だが手を突き出して彼の肩を押し戻そうとするもちっともフランシスの体は動かない。ばかりか顔の距離は狭まる一方で、悔しくなって髪を一房掴んで真横に引っ張った。痛い、とフランシスが棒読みで文句を言う。
(ちくしょう、こんなヘラヘラした奴に)
最早至近となった距離で、フランシスの目尻が和らいだ。この笑い方は知っている。自分の弱い所を見付けて喜んでいる時の顔だ。
「アーサー、眼鏡好きだったんだ。今度から部屋でも掛けるようにするよ」
「ばっか野郎! んな事俺は一言も言ってねえ!」
「はいはい、可愛い可愛い」
そんな風にいなされてもちっとも嬉しくない。それでも近付いてくる唇からは逃れがたく、アーサーは指に絡めたままだった髪の束をくるりと回しながら目を閉じた。
TPOなんてつまらない言葉は、生憎と頭には浮かんでこなかった。
きっとフランシスも同じだったのだろう、校内であると言うのに、この時に限って二人共常識と言うものがすっぽりと抜け落ちてしまっていたのだ。
だから、気付くのが、少しだけ遅れた。
「あの、図書館なので私語は………」
口論を聞きつけたのだろう、職員らしい青年がテーブルのある一角に足を踏み入れようとしていた事に気付かぬまま、二人は唇を触れ合わせてしまっていたのだ。声に気付いて視線を向けると、どうやら職員ではなく学生だったらしい、青年は少し幼くも見える紫の目を見張らせ、ついで瞬間湯沸かし器のようにぼっと顔を赤らめた。そこでようやく事の重大さに気付いてフランシスを突き飛ばすが、時既に遅しである。
「おひゃああああああっ!? す、すいませんそのっ、覗くつもりは……!」
二人のささやかな言い争いの数倍もの声量で、青年が叫ぶ。精一杯の憎らしさをこめてフランシスを見遣ると、彼は耳を押さえてうわーと呟いていた。今この瞬間を引き起こした犯人と言う自覚は、あまりないらしい顔である。
ティノ君五月蠅いわよ何してるの、と、今度はカウンターでよく見る女性司書が顔を覗かせた。フランシスとアーサーを見比べて、ティノと呼んだ青年を見て、全く何やってるのと青年の腕を引っ張っていく。
図書館員二人の姿が一角から消え去った瞬間、暴風雨に直撃されたような疲労感がアーサーの肩を襲った。はあ、と重い息が漏れて、慣性に従うがままテーブルに額を押し付ける。
「お前何やってんだよ……」
「アーサーにキスしたかったんだもん」
「だもんとか言うな気持ち悪い」
何事もなかったかのように再び読書を再開しようとしたフランシスの手から本と、それからついでに眼鏡も抜き去って、アーサーは帰るぞと小さな声で彼を怒鳴ったのであった。