クリスマスである。
しかし、クリスマスとは言えども学生の本分はいつまで経っても勉強だ。今日も今日とて朝から夕刻まできっちりと詰め込まれた授業をこなし、更に幾つかの授業では冬休み中の課題なんて有り難くもないプレゼントまで頂いてしまって、ティノは校舎を出た所でほうと息を吐いた。極めつけに図書館の手伝いをしている間に、辺りはもうすっかり暗くなってしまっている。
肩に掛けていた斜め掛けの鞄を担ぎ直し、マフラーを巻いて、ふと思うのはこれからの事だ。
たとえば司書の一人のように交際をしている彼女でもいれば、悩む暇などないだろう。これからその彼女と合流して、夕食を食べて、プレゼントを交換すればいい。
だが、ティノには生憎と彼女などと言う麗しい存在はいなかった。いなかったが、
「……うん……」
首を捻って、自分を納得させる為の頷きを校門の前に落としてから歩き出す。
ティノ・ヴァイナマイネンには、彼女などと言う麗しい存在がいない代わりに、「彼氏」と言う素晴らしく頼もしい存在がいるのである。その彼の元へ行こうと思ったのだ。
大学の横を通る坂道を、白い息をもわもわ生産しながら歩く。既に時間は夜の区分へ足を入れて久しく、大学付近を歩くのはカップルと、住宅地へと帰りゆくサラリーマンが少し見受けられるくらいだ。ケーキの箱を持って歩く人とぶつからないように気を付けながら、坂道を駅とは逆の方向へ行く。坂を下る人達を尻目に暫く歩いた所にあるこぢんまりとした花屋が、ティノの「彼氏」のバイト先だ。
帰り道、駅とは正反対の方向へ進むのももう随分と慣れた。透明な壁の向こうで黙々と花の手入れをする彼を見つけるのも、だ。
「ベーさん」
人がやっと一人通れるような細いドアをすり抜けると、彼――ベールヴァルドは、一人で松と千両の実で小さなリースを作っているところだった。手に持ったペンチを置いて、ほんの一瞬ではあるものの、黙りこくったまま眼鏡越しにティノを見つめ、そして、
「……ん、ティノ」
ようよう、普段から重い口を開く。本当はティノが店の前で立ち止まり、少し荒れた息を整えている所から横目で見ていた癖に、今気付いたかのような態度を取るのが彼の常だった。無表情でぶっきらぼうな割に、気を遣う性格なのである。
「それ、何ですか? ……えと、松だから、お正月の飾り?」
「ん、そだ」
白いテーブルの上で、丸くワイヤーで留められた松の葉の緑が鮮やかだが、器用ですね、と覗き込むと、ぱっとリースを持ち上げられてしまった。驚いて見上げた顔は、うっすら赤くなっている気がする。
「……あんまし上手ぐ出来ねかったから……」
「……そんな事ないですよう、すっごく綺麗でしたよ?」
リースをティノの届かない高さへ掲げながらもごもご言う彼に、つい笑みが漏れてしまう。もっとじっくりリースが見たかったので素直な感想を述べてやると、今度は腕がひょいと目線の高さまで降りてきた。折れるのが早いと言うか、彼はティノにはひどく甘い。
「ほら、すっごい綺麗ですよ? どうして隠しちゃうんですか」
「けっぢょも、これはまだ練習だし……」
「じゃあこれ、僕の部屋に飾ってもいいですか?」
リースを手に取って上から下からと眺めながら言うと、むっとベールヴァルドの顔色が悪くなった。いけない、地雷踏んだかな、と思わず背筋に嫌な汗が流れる。
「……だ、駄目ですか?」
「おめにはもっと上手ぐ出来たやつをやっがら、それは駄目だ」
「……えー?」
頑なに首を横に振って、終いにはリースをティノの手からやんわり奪い取ってしまうベールヴァルドには、小首を傾げてささやかな不平を一つ。
どうせ一人暮らしのアパートに短い期間飾るだけなのだ、売り物レベルの丁寧さ、綺麗さは求めていない。しかし、「わざわざ作らなくてもいいのに」などと言おうものならば、彼の顔つきが益々険しくなるのは目に見えている。
幾ら彼との付き合い方に慣れてきたとは言え、無言のまま深くなる眉間の皺はあまり拝みたくないものだ。
「じゃあ、待ってますね。ちゃんとお正月に間に合うように作って下さいね」
だからここはティノが折れておく。恋愛は妥協の連続だと誰かが言っていた。――その「恋愛」を、まさか同性と繰り広げる事になるとは、その言葉を聞いた時は欠片も思っていなかったとは思うが、それはそれ、人生何が起こるか分からないと言う事である。
「今片付けっから、ちっと待ってくんなんしょ」
壁に掛けられた時計を一瞥して、ベールヴァルドがのそりと動く。ティノが店に来た時には閉店時間を過ぎていたから、「片付ける」というのはリースを作るのに出していたペンチやワイヤーの事だろう。見渡せば店内は整然としていて、彼は閉店の準備を終えて尚自分を待っていたのだ、と気付いて頬に血が上った。かっと急に熱を持ったそれを、己の両手で冷ます。
(もう、携帯に連絡くらい入れてくれたっていいのに)
クリスマスの夜に、店内で一人リースを作りながら待っていた彼は、果たしてティノが来なかったらどうするつもりだったのだろうか。
(――約束した訳でもないのに来ると思われてる僕も、大概恥ずかしいけど)
「ティノ?」
頬を両手で包んだまま立ち尽くす自分を不審に思ったのだろう、道具箱を持った彼が顔を覗き込んでくる。至近距離にくすんだ青を認めて、思わず一歩後退る。
「おひゃあああっ! なっ、何でもないです! 何でもないですよ!」
「……?」
む、と眉を顰めて尚も首を伸ばしてくるベールヴァルドの顔を背を反らして避け、ティノは近すぎるそれに手を翳しながらくるりと翻った。面と向かって「顔が近い」だなんて、ティノにはとても言えない。
そのまま照れ隠しのつもりで視線をあちこちへ向けていると、彷徨わせていた視線にふと見慣れぬものが飛び込んだ。店の奥まった所にある柱、そこに画鋲で何かが貼り付けられている。
「? 何だろ、あれ」
照明も落とされて薄暗くなった奥のエリアでは、色彩も落ちて物の正体が掴み難くなる。ふと湧いた好奇心のままに近付いてみると、それは小さな葉を付けた細い蔓の集合体のようなものだった。
「……んん……?」
ごめんね、と呟いてから、手を伸ばしてちょいちょいと触れてみる。つやつやとした葉の手触りは造り物の感触ではなく、それが天然の植物である事を指先を通じて教えてくる。
しかし、ティノはこんなにもくしゃくしゃと丸まった物体――植物を知らない。
「ヤドリギ」
「へっ?!」
何ですかこれ、と問おうとした矢先に、答えが後ろから覆い被さるように聞こえてきた。――覆い被さるように。覆い被さるように?
(え、)
生まれた疑問には、驚いて巡らせた視線が答えた。自分よりも背丈のある彼に、後ろから抱き締められている。
すぐ近くに自分とは違う体温があるのが気恥ずかしくて身動ぎする。ずっと室内にいたからだろう、回された腕も、ぎゅっと押し付けられた体も、熱いと感じる程温かい。
「ベ、ベーさん、外、」
薄暗いとは言え、夜の学生街とは言え、誰が通り掛かるかは分かったものではない。しかも隣の喫茶店ではベールヴァルドと同学年である誰かがバイトをしていたのではなかったか。貴族様、なんて呼んで女の子が羨望の眼差しを向ける、あの音楽科の彼がいるのではなかったか。
見知らぬ通り掛かりの人に見られるのも恥ずかしいが、なまじ顔を知っている人間に見られてしまうのも恥ずかしい。その後うっかり学内で会おうものなら、きっと顔が茹で蛸のようになるまでネタにされるに決まっている。
だが、ティノがばたばたと手を動かしても、体を捻って腕から逃れようとしても、ティノを捕まえているベールヴァルドは動じない。ばかりか頭に顎の先を載せてリラックスしているものだから、ティノは羞恥とパニックで泣きたくなった。
その尖った顎と自分の頭蓋を通して、ベールヴァルドの低い声が響く。
「ヤドリギの花言葉、知ってっか」
「し、知りませんよう」
そんな事はどうでもいいから、解放して欲しい。話はそれから幾らでも聞こう。――なのに。
「ん」
と小さく声を零しながら頬に唇を寄せられてしまって、ひ、と肩が上がった。
「ベーさんっ」
そう言う事はもっと他の場所でやってくれればいいじゃないか。そうすれば文句だって言わないし、その、もう少し協力的にだってなったっていい。しかし、誰の目があるか分からない場所と言うのは怖い。彼はその辺りは深く考えていないようだが、自分は可愛らしい線の細い女の子では断じてないのだ。
「……ヤドリギの花言葉は、」
ティノの困惑をまるで察さずに、再び薄い唇が頬、それも唇の際に落ちる。うひゃ、と反射的に漏れたティノの声にぷすりと口の端だけで笑って、ベールヴァルドは嬉しそうに言葉を継いだ。
「『私にキスして下さい』」
「……え?」
彼の口から漏れた標準語に、そしてその言葉の意味に、訳が分からなくて顔を上げる。レジカウンター上の白熱灯の遠い明かりだけの店内で、彼の精悍で、時たま少し怖いとも思う顔が、珍しく柔らかく嬉しそうに笑んでいる。
「海外だと、ヤドリギの下じゃいくらキスしてもええんだぞ」
「そ、そうなんですか? ……って、そうじゃなくってですね!」
ここは海外じゃありませんから! と小さく叫ぶと、またベールヴァルドが笑った。笑われているのに、間違いなく話はおかしい方向へ進んでいるのに、その小さく上下する肩がやはり珍しくて言葉が止まる。
「おめ、変な事気にすんだべない」
「変な事って、………ああぁもう……」
そんな事を言っている間も寄せられる唇に、緊張感は半ば無理矢理脱力感へとすり替えられる。
幸いにも、通りからは二人とも背を向けている形になる。もういいや、と諦めを溜息で示して、ティノは両手を挙げる代わりに彼の腕を身の内側へ引き寄せた。降参の言葉は言わずに小さく首を仰のかせると、待ちかねたとでも言いたげにベールヴァルドの唇が降りてきた。何やってるんだこんな所で、と思いながら、鞄も肩から下ろさぬままキスを受ける。
どうせ彼はもうケーキもプレゼントも用意していて、もう暫くすれば部屋で食べようと言い出すに違いない。それまでの間のちょっとした横暴など、先程垣間見た笑顔の対価と言う事で許してやろうじゃないか。
(……まあ、ヤドリギでこんなにはしゃぐベーさんと言うのも、子供っぽくて可愛い、し)
数時間後、そのケーキを食べながら「ヤドリギは最初からキスをするつもりで飾った」と言うベールヴァルドのあんまりな告白を聞く事になろうとは露も思っていないティノは、短く切られた彼の髪が己の頬を擽るのを数分間享受していたのであった。