からんころん,古風な鈴の音が聞こえて,ローデリヒは顔を上げた。
「おや,ルートヴィッヒではありませんか,こちらに来ていたんですね」
マスターが鈴の音を聞いて奥から出てくる。見覚えのある人間を見た,というように片眉を上げる仕草は,学生街の名物マスターと呼ぶのに相応しくて,少しだけローデリヒは笑った。自分たちがこの学生街に来たころからちょくちょくこの店に顔を出しているルートヴィッヒは,マスターも自分たちアルバイトの幼なじみとして認識してくれているらしい。
ぺこり,と頭を下げる彼は,ローデリヒにとっては幼なじみだ。幼なじみになった経緯からしてこの学生街には縁があって,彼の父親と自分の母親,それにここでアルバイトをしているエルマーの父親が,もともとこの学生街で共に青春(らしきもの)を過ごしたのだそうだ。
「昨日の晩から今日まで兄に世話になったところだ」
「ギルベルトはちゃんとしていますか?」
「今日は飲み会だと言うことで,さきほど追い出されたのだが,エルマーの影がちらつくのが気になるのだが……」
エルマー,と聞かされてローデリヒは苦笑を浮かべておいた。あの可愛い顔をした生き物が何をしでかすかは,知っているが知らない振りをしている。その方がたぶん,誰にとっても精神衛生上好ましいのだ。
それにしてもなんだかんだでこの弟も兄が好きらしい。
「しかしこんな入試の直前にギルベルトの世話に来て,貴方は良くできた弟ですね。調子はどうなのですか?」
「まだ確証は持てていないが,やはり前から言っていた国立を目指す。この大学の理工学部も受験はするつもりだ」
「貴方が自分でそれが良いと思うなら,きっとそれが良いのでしょうね」
ルートヴィッヒはいま高校三年生だ。この辺りの幼なじみには珍しく,がちがちの理系の進路を取るつもりらしい。ローデリヒは芸術系の進路なので,本当は一般受験のことはさほど詳しいわけではない。だが,そのローデリヒからでも,ルートヴィッヒの取ろうとしている進路がなかなか一般から見れば厳しいものであることは分かる。
だからこそこんなに忙しいクリスマスの時期にわざわざ上京してきて兄の世話を見ていることを単純に良い弟だと思うし,そんな風な兄思いの姿をいじらしいと思う。
「今日は,店が静かなのだな」
「皆さんきっと六本木や新宿にお出かけなのでしょう。こんな日こそゆっくりとここで過ごすに限ります」
ごそごそとマスターが出てきて,何も言わなくてもルートヴィッヒにはブレンドを出すことになっているらしく,ことん,とコーヒーカップを置いた。ついでといわんばかりにローデリヒにはウインナーコーヒー。
「今日はサービスだ」
律儀なルートヴィッヒがそれはどうかと思うとか言い出すよりも早く,マスターはさっさと身を翻して行ってしまう。その姿を見るたび,こんな良い店でピアノを弾く仕事をもらえていることをローデリヒは感謝する。
芸術学部だとなかなか時間も取りづらいが,このマスターは来ることができる日に,ある程度リクエストに応えて弾きたいものを弾いてくれたらいいと言ってくれる。そもそも本当は学生街の喫茶店においてはピアノを置くスペースの余裕も,人件費も無駄なのに,そういったものをあえて置き続けるマスターの頑固さにつくづくローデリヒはほれぼれする。
「それで,今回はどうしたのです?」
「お前に頼みがある」
本当ならば,こんな若造にお前などと言われようものならば,ふざけるのも大概にしろと怒るのが普通なのだが,残念ながらローデリヒがルートヴィッヒにこう呼ばれ始めてからかなり時間が経ってしまった。
そんな呼ばれかたで,真剣な口調で受験生に頼みを切り出されると,ローデリヒも思わず構えてしまった。ウインナーコーヒーを手元に置くと,なるべく硬い口調になるように気を掛けて言ってみる。
「何ですか,私に出来ることならばいいのですが」
「頼み自体は簡単なことだ」
ルートヴィッヒは兄の家に泊まるために持ってきたのだろう,少し大きめのスポーツバッグからクリアファイルに入った書類を取り出した。この時期に受験生が持って歩く書類,といわれたら確かに心当たりがある。
「願書,ですか」
「これのチェックをして欲しいのだ」
差し出されたものを見て,ローデリヒは思わず眉を顰めた。願書のチェックのどこが簡単なのだ,と反論しようと思ったけれども,ファイルを持つルートヴィッヒの手から顔に目線を転じると,想像したよりもずっとまじめな顔をした彼が,といっても彼がまじめでない顔をしている所もなかなか想像できないのだけれども,それでも妙な気迫のようなものを纏っているものだから,ついつい頷いてしまった。
「実際の所,大丈夫だと思う。だが,どうしてもローデリヒに確かめて貰いたいのだ」
願書に目を落とした所で,突然そんな声が正面から飛んできた。
思わず咳き込みそうになったのを何とか堪える。
随分と甘えたことを言われている気分だった。というかおそらくそうなのだろう。彼が甘えるのは恐らく珍しいことで,だけれどもこんな,まじめな顔で,ローデリヒはいくらか混乱した。
ただの弟のような幼なじみに,覚えさせられる混乱ではないような気がした。
ざっと目を通し,要項と照らし合わせてもおかしなところはなかったので,ローデリヒは書類をクリアファイルに戻す。
「大丈夫だと思いますよ」
顔を上げたときにいきなりルートヴィッヒと目があって,驚いて思わず目線を逸らした。故意ではなく偶然だと思いたい。
受け取ったルートヴィッヒは,感謝する,と短く告げて,クリアファイルを鞄に仕舞った。
「これで,きっと安心して出願できる」
畳みかけるような言葉に,逸らした視線を少しばかり戻す。ルートヴィッヒは鞄のファスナーを閉めながら,いつもまじめな硬い表情を少しだけほどいて,口元だけがふわりとあがっていた。
(ああ,もう)
そんな姿が可愛いだなんて,正気の沙汰ではない。
「もし,こちらに出てくることに決まれば」
すこしほだされた所にルートヴィッヒの目線が向けられて,ちらりと見ていただけの視線が強引に絡め取られる。意図が分からずにそらせないで居れば,そのゆるんだままの表情で,彼はぽつりと言った。
「もっと,お前のピアノを聞けるようになるのだな」
理解は,少し遅れて。その間に彼は颯爽と鞄を持って立ち上がりざくざくと店を抜けようとして,思い切りドアに鞄を引っかけて動揺しながら行ってしまった。
「……え?」
「可愛いものじゃないか」
そういえばそこにいたマスターが突然そんなことを言うものだから,あんまりに動揺していたローデリヒは,せっかくのウインナーコーヒーがすっかりぬるまって,残念な思いをするのにさえ少しの時間を要した。