だめなおとな
ばさり,と音を立てる,瞬き
ロマーノが数学の問題を解いているその顔を,スペインは正面に座って見る。勿論手が止まったらすぐに声をかけてやるつもりなのだけれども,この子は勉強は出来るから正直家庭教師なんかいらないのではないかと思う。ただ自分がいなければ勉強が進まないらしいので,監視役としては役に立っていると思うけれども。
この家は大概複雑で,金はあるけど愛がないのか,この子は一人で暮らしている。オーストリアに紹介されてこの子に家庭教師につくことになった時,そんな家庭事情は面倒だから断ろうと思った。それなのに一目見て,スペインも自己紹介をして,お互いに何を要求しているか話して,驚くほど明確に自分というヴィジョンを持っているものだから,断れなかったのだ。
高2の半ばで彼を教え始めて,高3にあがるときに彼は自分と同じ進路を選ぶことを決意した。驚いたけれども,それもロマーノの選択ならばいいと思うと背中を押した。大学の講義は昼間にこなし,夜も今はどうせ孤独な身の上だから,ほぼ毎日彼の部屋に通っている。
独り身の目的は果たして本業のためだけかと言われたら,少し困るけれども。
(かわええなぁ)
煙草がほしい,と思うのとほぼ同じ感覚で,思う。
あまりうっかりことに及ぶとクビが飛ぶので,思うにとどめている。
俯いて瞬きをして,少しだけ手を止めたロマーノの様子を見る。
「終わった?」
「もう少し」
どれ,と思ってノートを覗き込む。確かに進んでいるが,手を止めたのは恐らく思考停止だろう。
「そこで微分つこうて。グラフ描いてみて」
身を乗り出してノートを指差すと,ロマーノが少し驚いたように身を引いた。そういえば近かったかなぁと思いながら,けれどもまたとないチャンスのようで思わず目を見てしまう。ロマーノは余り色気のないことを言った。
「煙草臭い」
「ロマーノ,煙草嫌い?」
「吸ったことないし吸う人がまわりにいないから,わからない」
「こんなん吸うもんじゃないよ」
シャツの胸ポケットに入れてあったハイライトのメンソールを取り出して見せてみる。高校生の場合,好奇心か,露骨な嫌悪か,興味を示さないか,きっとそれのどれかだろうと思った。ロマーノは好奇心にかられたらしく,じっと箱を見つめた後,銀紙を指で弾いてみせる。
「甘い,においがする」
「ラムはいっとるからな。重たいから吸わんとき,こんなん」
「なんでスペインは煙草吸うんだ?」
「口寂しいからかな」
煙草の葉そのもののにおいは,ハイライトの場合はラム酒の甘いフレーバーに隠される。ニコチンの重軽ではなくフレーバーのために,スペインはいつもハイライトを選ぶ。たとえばアメリカなんかには,そんな重い煙草のどこが良いんだいと言われる。
「早く,大人になりたい」
ついでロマーノの口から飛び出した言葉には少し驚いた。
そういえばこの子はずっと一人で暮らしていて,なんでもいいから生きる証拠がほしいと思っているらしい。
「じゃ,まず大学入ろうか」
「入ったら,お前と一緒に煙草吸える?」
この子は何を言うのかと思って,至近距離だったのを忘れて目を合わす。
押し付けられた唇が,嘘のように柔らかい。
ロマーノの瞳は大きくて,そしてその奥が揺れたのをスペインは確かに見た。
(ラムより,ずっと甘い)
思ってしまえば自然と心惹かれてきた甘さが腹の底でかっと熱くなる。
唇を離してロマーノはまた近くで瞬きをする。
ハイライトの匂いを纏った指を,ロマーノの頬に寄せる。
「微分は,あとでええよ」
大人をからかうなんて,ロマーノのほうが大人やん。
つぶやくと,ロマーノは目をそらさないまま信じられない位か細い声で,からかってなんかない,と呟いた。
***
え,つづかないよ?(にこっ
タイトルは「悪魔とワルツを」より。
20080809初出