しとしとレイニーブルー

君が望むから,愛を綴ってあげましょう。

 『アーサーへ

愛を形にすると言うのはとても難しい作業だね。
けれどもそれがアーサーの望みなので、俺は俺なりに頑張ってみようと思います。』



 殆ど使われないまま今に至っていたレポート用紙を一枚めくり、ペンを滑らせる。
 慣れないことをするから、言葉には迷う。言いたいことに追いつくには、表現はいくら選んでも選びきれない。まだほんのわずかの書き出しだけで、こんなに悩むとは思わなかった。長い戦いになりそうだと、書き出した文章を見て溜息をついた。
 ラブレターを書いたことは、覚えていないだけでフランシスにだってたぶん幾度かはあるだろうと思う。それこそまだ青い中学生の頃とか、恥ずかしい文面を考えて必死に書いていたのだろう。けれども、ありえてもいいそのようなことは、もう他の雑事に紛れて消えてしまったのか、フランシスの記憶には残ってなかった。高校生の頃にはきっとラブレターを貰ったこともあると思う。大学に入ってからならば、随分と過剰にかわいがっていただいた年上の女性に、戯れに送ったことがあったかもしれない。
 いずれにしても、正しい意図を持って、正しくラブレターを書こうと試みたのは、ほとんどはじめてのようなものなのだ。
 書き始めたのは良いけれども、どう続けて良いのか分からない。見当も付かない。けれども、それはフランシスがいま欲しい、どうしても欲しいアーサーの望みだから。だから、フランシスにはそれを放り出す可能性なんて考えられなかった。
 土曜日の昼前のスターバックスは、ほどほどに混んでいた。まだフランシスが肩身を狭い思いをしなければならないほどではないけれども、もしかしたら午後の一番盛況な時間は長々と書き物の作業をしていると睨まれるかも知れない。本当に席もなくなるほど混むのは午後からだろうけれども、この街だって学生街と言っても学生しか住んでいないわけではないのだから、地域の奥様方、一人の遅い朝食を楽しんでいる壮年男性、見渡せばいろいろな客がいる。
 昨日図書館で借り込んだ沢山の恋愛にかかわる本と、就職先の課題と、それから引っ張り出してきたレポート用紙とペンケース。フランシスの持ち物は鞄が小さいなりになかなかのもので、今日一日ここにいるつもりで来たのだから、と自分にだけ言い訳をする。どうせ互いに興味がない世の中だから、本当に店が混雑してきたところで、こんなフランシスの思惑になど意味はなくなるだろうけれども。
 外は雨だった。雨は一昨日の夜からずっと断続的に続いている。昨日だけ少しだけ雨は雲の中に止まっていたけれども、この梅雨の季節にたかが知れているような灰色の垂れ込めるような雲だった。
 そう、アーサーに漸く結論をせがまれた一昨日の夜も、フランシスの下宿先の古い窓枠を、しつこい雨音がしとしとと叩いていた。定食屋の夫妻は出かけて不在だったから、フランシスはアーサーを連れてきて夕食を振る舞っていた。振る舞うと言ってもたいそうなものではなく、朝から仕込んであったカレーを温めただけなのだが、それでもアーサーは文句を言わずにもそもそと完食してくれた。
 アーサーはカレーと名の付くものならば何でも好きであるらしい。もう少し区別が付いてくれても作り手としては作りがいがあるのだが、そもそも、彼は食に対して固執するところがないらしい、と気づいたのはかなり早くだった。
 一般に大学の先輩が入学したての後輩にするように、昼食にはつれていってやっていたのでしっかりと食べている様子を見ることが出来たが、どうも夕食をしっかり摂っている気配がなかった。
 一旦ためしに尋ねてみれば、当然のように帰ってきた回答がこれまたひどかった。良くてコンビニ弁当、マシでインスタントラーメン、ひどいと抜いているらしい。フランシスは見るに見かねて、週に一度くらいだけ夕食を作ってやるようになっていた。
 とにかく無防備で無自覚なアーサーは、いつか落としてやる、と宣言した不埒な先輩であるフランシスに対して、いともたやすく自分の部屋に上げて台所を好きに使わせたり、あるいはそのときのようにフランシスの誘いに応じてフランシスの下宿までやってきたりした。意図があるならばたいそうなもの、何度か生唾をゴクリと飲む瞬間はあったが、それでもいままで何も手出しをせずに来ているのは、そういったなし崩しに出来る関係ではアーサーがきっと不安になるだろうと思うからだ。
 したがってフランシスはその無防備さに逆に当てられて、夕食の用意をしてやるからと言ってその代償に不埒な誘いを掛けるのはいつも気が咎めた。結果フランシスと来たらいまとなってはアーサーの夕飯係になってしまって、その事実を話したときにはあの悪友どもも呆れていた。
 とにかくそうして一昨日は二人で下宿の食卓を囲んでいた。静かに降る梅雨の底、にいた。
 雨音は下宿の建物を叩き、暗い雲は地面近くまで垂れ込めて、空気や雰囲気の変化を阻害した。古い定食屋の建物の古い電灯が、ぼんやりと食卓とアーサーを照らしていた。その中でアーサーはふわふわときれいに見えた。
 食事を終えて、アーサーは御馳走様でした、と礼儀良く手を合わせる。何を出しても基本的にぺろりと完食してくれるけれども、そういった食後の挨拶をしてくれるところは好ましく思えた。挨拶をすると、彼はがたりと椅子から立ち上がる。
 何を考えているか分かりにくい、表情に本音を見せない相手ではあるが、食事を作ってもらっているという自覚があるのかないのか、洗い物だけは彼は自宅でも下宿先でも請け負ってくれた。
「美味しかった?」
「それなりに」
 アーサーが素直にフランシスの腕を認めてくれないのは癖のようなものらしく、いまさらアーサーの本音の回答を無理に引き出そうとはフランシスも思わなくなっていた。アーサーがそういった風に考えているならば、フランシスが無理やりに引き出す必要はない。たぶんそういった形のない賛辞や、確証のない感想を口にしたくはないのだろう、とフランシスは勝手に想像していた。
 ただ、そうして何も形にしないことがかえってアーサーの不安を煽ったのかも知れない。何かの言葉を引き出したいのかもしれない。
「貴方の本気を、確かめたいんです」
 突然言い出したのは、アーサーが洗い物をしている隣で、フランシスが薄いコーヒーをコーヒーメーカーに仕掛けているときだった。
 古びたシンクの古びた灯りの中に照らされるその言葉は、洗い物の水音に紛れるように呟かれたものだからつい聞き落としそうだったけれど、その言葉がフランシスにとって聞き落とせるものではなかったから耳に飛び込んできたのだろう。
 会話に間髪を入れてアーサーの言葉を引き出せなくなるのは嫌だった。ひとつひとつ、短い疑問を重ねてでも、とにかく少しでもアーサーの本音を引き出して、それからフランシスのしてやれることを探りたいと思った。
「本気なら、アーサーの不安や孤独を埋められるの」
「できるものならどうぞ」
「確かめたいの」
「手にするものを失うのは」
 何か言葉の続きがあるようなタイミングで、きゅ、蛇口をひねる音がして水音が止まり、少しは勝手が分かってきたらしい台所のタオルでアーサーは手を拭いた。フランシスはじっとアーサーを見つめていたが、アーサーが目を合わせることをしないのは、出会ったはじめからの癖だ。
「怖いと思うんです」
 その彼が、人の目を避ける彼が、一度だけまっすぐフランシスの目を見据えてきた、その瞬間の目線に身を切られるかとすら思った。
 ただひたむきに愛を求めているらしい彼が、そのくせ生半可では愛を受け取ってくれない彼が、フランシスにそう言う話題で目線を向けたと言うだけで、存分に恋はまた加速する。
 もう、逃げ場などないくらいに。
「確かめられるには、例えば何がいいかな」
「それはフランシスさんがお考えになって下さい」
「期限は?」
「設けません、でも、俺に、フランシスさんを信じさせて下さい」
 フランシスはこのとき、本当は、アーサーはきっともうフランシスを信じ始めてくれているのだろうと悟った。けれども根拠や確証のない感情を恐れるアーサーが、何よりも彼自身の感情に恐怖を覚えているような、そんな気がした。
 根拠が分かるようで分からないのだけれども、本質的に人とわかり合う気がないアーサーが、フランシスにそれを試みるように頼んでくれたという段階で、彼の価値観に風穴を開けたのだと確信した。
 あとはその体がぐらつくような、熱烈ななにかで彼を囲んでやるだけだった。だからフランシスはゆっくりとうなずいた。古い茫洋とした光はアーサーの輪郭を暈かして、だからやはりフランシスの目にアーサーは随分とやわらかく光って見えた。白いマグに薄いコーヒーを入れて差し出したとき、もうアーサーはフランシスを見てはいなかった。
 振り向かせる。信じさせる。愛を贈りあう。
 フランシスはそう決めたのだった。

***

人呼んで告白大作戦。
すっげ恥ずかしい本になってしまいそうです。