落ちていく、熱帯夜
ねえ、もうどうしていいかわからない、とでも言って欲しい?
電車に揺られながら、ブリジットは今日も不機嫌な表情を隠そうともしない。なぜならばそれが彼女の平常の顔だからだ。長い金髪を高い位置で二つに分けて結び、赤いふちのめがねをかけて、常に優等生然としているのがブリジットだ。成績は上の上、体育がやや苦手だがそれ以外はおおむね問題のない高校生活を送っている。
少し見知ればわかることだが、彼女は優等生然としているのではなく実際に優等生なのである。彼女の学校は中学校および高校がエスカレーター式なので、在籍の長い人間はもはや四年か五年ほど彼女を知っているが、ほぼ皆が口をそろえ、ブリジットが校則に違反しているところを見たことがないという。彼女ともっとも親しい人間であると目されている桜は、そういったブリジットの評判を聞くとやんわりと笑う。
「ブリジットさんは、そういった類のことに意味を見いださないんです」
現にブリジットだって休日にはマニキュアを塗ったり、ほんのすこしだけ化粧をしたりもする。けれども彼女はそれを休日の内に落としてしまう。なぜなら月曜日が来れば、マニキュアも化粧も学校で禁止されているものなので、しかられるだけしかられて、しかもそれらを教師の前で落とさなければならないのである。そんなことに合理性はない。面倒くさいだけだ。
そんなわけで学校という場におけるブリジットは非常にまじめな優等生だ、と評価されている。そういう生き方を選んでいるのはブリジット自身なのでそんなことに疑問を覚えたことはない。たぶんもう努力すれば少し可愛くできることが出来るらしいとはわかっているけれども、これはこれでいい、ブリジットはそう考えている。
趣味は読書と、そう、ピアノだ。
ピアノは厳密に言えば趣味なのかどうなのかブリジット自身もよくわかっていない。ただとりあえずだいぶ長く、それこそ幼い頃から高校生まで続けているのだから、趣味だと言っておけばいいのではないかとあの男が言っていた。
あの男と言っても、同い年の少女たちがあこがれるような、わずらわしくて不純で面倒な意味での男ではなく、自分が面倒を見てもらっているピアノ講師と言うことだ。前の担当がなんらかの事情でやめて、それからブリジットの担当になった男だ。たぶん、二年と少しのつきあいになるだろう。
つきあいといっても、まかり間違ってもあんな男とつきあいたくはないとブリジットは思っている。そうね、うん、思っている、と自分に言い聞かせる。ブリジットはけしてそんな男を好きになったことはないと自分に言い聞かせる。
けれども、そんなことを考えている段階で、そんなことを自分に言い聞かせている時点で、すでにその男に対して持つ感情は、恋とやらに近いものだと、うっすら知ってはいる。
ブリジットの学校から自宅までは、各駅停車で乗ってしまえば十五分ほどである。行く先はそれなりの観光地じみた都会で、帰る先はほどほどの住宅街だ。よく開発されて大きな施設などもあるニュータウンだとは言われている。けれども、ニュータウンがニュータウンとして新しく生まれたときには、まだブリジットは生まれていないから、何がどう新しいのかはぴんとこない。いずれにしてもそういう住宅街にはここぞとばかりにいろいろな施設が揃っている。ピアノ教室があるのもその一貫だろう。
ブリジットは生まれてこの方この街に住み、随分長いあいだそのピアノ教室に通っていた。
何年間も様子を見ていれば、その教室は講師も受付も含めて、何人かの社員と地元の派遣だかパートだかアルバイトだかで成り立っているようだ、とわかってくる。
こういった業態のピアノ教室には珍しいことに、この教室の講師のうち、幾人かの社員と、そこそこの年齢の女性パートを除けば、大半はアルバイトだった。というのは、ブリジットの通う学校と、ブリジットの住む家のあいだには、それなりの評価の私立の音大がひとつある。そこからのアルバイトがこの教室の大半の講師だった。
従って講師は学生だから、数年スパンで変わっていく。社員も数年スパンで変わっていき、結局変わらないのは何年も勤めていて、時として地元のスーパーで会うようなパートの年配の女性だけだった。
つまりあの男もそう、ずっと何年もこの教室にいるわけではないということだ。ブリジットはそう自分に言い聞かせる。ブリジットの担当が今の音大生になってたぶんもう二年は経った。離れたらそれなりに寂しいだろうし、それなりに平気だろうと思う。そして、わざわざそんなことを自分に言い聞かせる意味はよく分からない。
各駅停車がホームに人をはき出す。ブリジットも人混みに紛れて階段を下りる。この路線はやたらとカーブや傾斜が激しいので、いつもホームに降りるときに足元を見ていないと怖い思いをする。
帰宅ラッシュはすでに始まっているらしい、その程度の混雑具合の時間だった。レッスンの時間には半端な余裕があるから一旦帰っても良いのだが、音楽教室は駅前にあるのでおっくうだから直接制服を着たまま行くことにしている。
「あらブリジット」
軽薄な声を後ろから掛けられる。
さて、無視したものかどうしようか考える。
隣の車両に彼が乗っていることに気づいたのは多分ブリジットが先だ。車内でフランシスはこちらを見もしなかった。だから、ブリジットが同じ電車に乗っていたことや、ブリジットが電車の中からフランシスの存在に気づいていたことには、たぶん気づいていないだろうと思う。
「先生、こんにちは」
あたりさわりのない挨拶を選んでする。
フランシスは、こんにちは、と挨拶を返してくる。そのまま当然のように隣に並んで階段を下りる素振りを見せるので、ブリジットは首をかしげた。
「直接教室へ?」
「そのつもりだけど、なに、お茶でもしたい?」
「先生、五時のレッスン遅刻しそうでしょ?」
ブリジットが辛辣に言い放つと、やだ、ばれてたのね、とフランシスは肩をすくめる。
「ちゃんと仕事しなさいよ、あの子だってそろそろ発表会の曲決めなくちゃいけないんでしょ。ぎりぎりに先生に来られるなんて、かわいそうだわ」
「ブリジットったら俺の仕事のタイムテーブル把握してくれてるなんて、お兄さん照れちゃうなぁ」
「一生おっしゃってなさい」
階段から下りて、大きなロータリーのあるほうの改札を同時に抜ける。
タイムテーブルを把握していると言われて、その瞬間心臓が跳ね上がったのが分かった。何かの言い訳をしなければならない、咄嗟に考えたことはそれだった。当たり前でしょう、それくらい、当然にしているわ、と言い切れないブリジットは、せめてまだ何か付け加えて、ごまかして茶化そうとした。けれども、それ以前に何か疑問を抱かなかったらしいフランシスがさて、とつぶやいた。
「可愛い子が待ってるから、急ぐわ」
「またあとで」
ブリジットの短い挨拶を聞いて、フランシスはにっこり笑うと、雑居ビルへ向かって走り出した。ブリジットは、ぽっかりと浮いた時間と、言いそびれた言葉を反芻して少しだけ迷うと、結局当初の予定通りに、雑居ビルのふもとにあるドラッグストアへ立ち寄ることにした。マニキュアを買いたかったのだ。
***
こんな感じでブリジットがフランシス相手に開き直る少女漫画です。
ビジュアルはにょたりあ設定ベースですが性格は捏造。男性イギリスに近づけてはありますが、女子高生的なエッセンスを足しています。
パラレルかつオリジナルキャラまがいなのでお気を付けて。
少し見知ればわかることだが、彼女は優等生然としているのではなく実際に優等生なのである。彼女の学校は中学校および高校がエスカレーター式なので、在籍の長い人間はもはや四年か五年ほど彼女を知っているが、ほぼ皆が口をそろえ、ブリジットが校則に違反しているところを見たことがないという。彼女ともっとも親しい人間であると目されている桜は、そういったブリジットの評判を聞くとやんわりと笑う。
「ブリジットさんは、そういった類のことに意味を見いださないんです」
現にブリジットだって休日にはマニキュアを塗ったり、ほんのすこしだけ化粧をしたりもする。けれども彼女はそれを休日の内に落としてしまう。なぜなら月曜日が来れば、マニキュアも化粧も学校で禁止されているものなので、しかられるだけしかられて、しかもそれらを教師の前で落とさなければならないのである。そんなことに合理性はない。面倒くさいだけだ。
そんなわけで学校という場におけるブリジットは非常にまじめな優等生だ、と評価されている。そういう生き方を選んでいるのはブリジット自身なのでそんなことに疑問を覚えたことはない。たぶんもう努力すれば少し可愛くできることが出来るらしいとはわかっているけれども、これはこれでいい、ブリジットはそう考えている。
趣味は読書と、そう、ピアノだ。
ピアノは厳密に言えば趣味なのかどうなのかブリジット自身もよくわかっていない。ただとりあえずだいぶ長く、それこそ幼い頃から高校生まで続けているのだから、趣味だと言っておけばいいのではないかとあの男が言っていた。
あの男と言っても、同い年の少女たちがあこがれるような、わずらわしくて不純で面倒な意味での男ではなく、自分が面倒を見てもらっているピアノ講師と言うことだ。前の担当がなんらかの事情でやめて、それからブリジットの担当になった男だ。たぶん、二年と少しのつきあいになるだろう。
つきあいといっても、まかり間違ってもあんな男とつきあいたくはないとブリジットは思っている。そうね、うん、思っている、と自分に言い聞かせる。ブリジットはけしてそんな男を好きになったことはないと自分に言い聞かせる。
けれども、そんなことを考えている段階で、そんなことを自分に言い聞かせている時点で、すでにその男に対して持つ感情は、恋とやらに近いものだと、うっすら知ってはいる。
ブリジットの学校から自宅までは、各駅停車で乗ってしまえば十五分ほどである。行く先はそれなりの観光地じみた都会で、帰る先はほどほどの住宅街だ。よく開発されて大きな施設などもあるニュータウンだとは言われている。けれども、ニュータウンがニュータウンとして新しく生まれたときには、まだブリジットは生まれていないから、何がどう新しいのかはぴんとこない。いずれにしてもそういう住宅街にはここぞとばかりにいろいろな施設が揃っている。ピアノ教室があるのもその一貫だろう。
ブリジットは生まれてこの方この街に住み、随分長いあいだそのピアノ教室に通っていた。
何年間も様子を見ていれば、その教室は講師も受付も含めて、何人かの社員と地元の派遣だかパートだかアルバイトだかで成り立っているようだ、とわかってくる。
こういった業態のピアノ教室には珍しいことに、この教室の講師のうち、幾人かの社員と、そこそこの年齢の女性パートを除けば、大半はアルバイトだった。というのは、ブリジットの通う学校と、ブリジットの住む家のあいだには、それなりの評価の私立の音大がひとつある。そこからのアルバイトがこの教室の大半の講師だった。
従って講師は学生だから、数年スパンで変わっていく。社員も数年スパンで変わっていき、結局変わらないのは何年も勤めていて、時として地元のスーパーで会うようなパートの年配の女性だけだった。
つまりあの男もそう、ずっと何年もこの教室にいるわけではないということだ。ブリジットはそう自分に言い聞かせる。ブリジットの担当が今の音大生になってたぶんもう二年は経った。離れたらそれなりに寂しいだろうし、それなりに平気だろうと思う。そして、わざわざそんなことを自分に言い聞かせる意味はよく分からない。
各駅停車がホームに人をはき出す。ブリジットも人混みに紛れて階段を下りる。この路線はやたらとカーブや傾斜が激しいので、いつもホームに降りるときに足元を見ていないと怖い思いをする。
帰宅ラッシュはすでに始まっているらしい、その程度の混雑具合の時間だった。レッスンの時間には半端な余裕があるから一旦帰っても良いのだが、音楽教室は駅前にあるのでおっくうだから直接制服を着たまま行くことにしている。
「あらブリジット」
軽薄な声を後ろから掛けられる。
さて、無視したものかどうしようか考える。
隣の車両に彼が乗っていることに気づいたのは多分ブリジットが先だ。車内でフランシスはこちらを見もしなかった。だから、ブリジットが同じ電車に乗っていたことや、ブリジットが電車の中からフランシスの存在に気づいていたことには、たぶん気づいていないだろうと思う。
「先生、こんにちは」
あたりさわりのない挨拶を選んでする。
フランシスは、こんにちは、と挨拶を返してくる。そのまま当然のように隣に並んで階段を下りる素振りを見せるので、ブリジットは首をかしげた。
「直接教室へ?」
「そのつもりだけど、なに、お茶でもしたい?」
「先生、五時のレッスン遅刻しそうでしょ?」
ブリジットが辛辣に言い放つと、やだ、ばれてたのね、とフランシスは肩をすくめる。
「ちゃんと仕事しなさいよ、あの子だってそろそろ発表会の曲決めなくちゃいけないんでしょ。ぎりぎりに先生に来られるなんて、かわいそうだわ」
「ブリジットったら俺の仕事のタイムテーブル把握してくれてるなんて、お兄さん照れちゃうなぁ」
「一生おっしゃってなさい」
階段から下りて、大きなロータリーのあるほうの改札を同時に抜ける。
タイムテーブルを把握していると言われて、その瞬間心臓が跳ね上がったのが分かった。何かの言い訳をしなければならない、咄嗟に考えたことはそれだった。当たり前でしょう、それくらい、当然にしているわ、と言い切れないブリジットは、せめてまだ何か付け加えて、ごまかして茶化そうとした。けれども、それ以前に何か疑問を抱かなかったらしいフランシスがさて、とつぶやいた。
「可愛い子が待ってるから、急ぐわ」
「またあとで」
ブリジットの短い挨拶を聞いて、フランシスはにっこり笑うと、雑居ビルへ向かって走り出した。ブリジットは、ぽっかりと浮いた時間と、言いそびれた言葉を反芻して少しだけ迷うと、結局当初の予定通りに、雑居ビルのふもとにあるドラッグストアへ立ち寄ることにした。マニキュアを買いたかったのだ。
***
こんな感じでブリジットがフランシス相手に開き直る少女漫画です。
ビジュアルはにょたりあ設定ベースですが性格は捏造。男性イギリスに近づけてはありますが、女子高生的なエッセンスを足しています。
パラレルかつオリジナルキャラまがいなのでお気を付けて。