ふわふわチェリーブロッサム
だって、もう卒業式だから、いい加減腹をくくらなきゃ。
あちゅむ。
くしゃみが出た。そういえば花粉は今が盛りだとか、昨日の天気予報が言っていたとフランシスは思い出す。もともと自分が花粉症であるつもりはなかったのだが、こうもひどい量が飛んでいると、花粉症に馴染みのない自分もどこかで反応する要素があるのだろう。自分の両親が花粉症だったのかどうだったのか、たぶん誰に聞いてもわからないので、ひいては遺伝的に自分にその気配があるのかわからない。
とりあえず鼻の奥に湧き上がるよくわからないむずむずとした気配をやり過ごしながら、フランシスは駅への道を歩く。いい日和だ。一番寒さの山を越えて、少し曇りがかってはいるけれども、明るい空が天に広がっている。これから春が来るのだ。そして寒さも緩んでいる。こんないい日和に、と思ってフランシスは自分の格好を見下ろし、とりあえず溜息を吐く。
スーツに書類かばん。立派なサラリーマンのなりをしている。
二月も末だ。
月の半ばにあった学部の最後の試験は、おそらく問題なくパスしている。友人たちはひいひい言っていたが、なんだかんだでアントーニョは進学先が決まっているし、ギルベルトはどうせ五年生だ。だから騒ぎ立てることもないのだけれども、成績発表までは不安で仕方がないのは人間の心理だろう。
ただ四年制大学の学部の四年生の春休みなんて最後の暇な時期だし、まるでお声がかからない身の上ではないのだから卒業旅行にでも行けばいいのだろうけれども、そうはいえない事情が今日はあった。事前勤務での出勤だ。
スーツは春からの勤務先であつらえたものだ。百貨店という誇り高いサービス業につく以上、自分が良いものを知らなければならない。そう思って、フランシスが学部の四年間で殆ど使わず貯めこんだ親類からの仕送りの最初は、それに充てた。靴とかばんも揃えて、本当にこの金を使う機会があったことについてしばらく感傷に浸った。
それにしても自分の恋人は非常にいいことを言った。
「どんな良い素材も良い皮も、ちゃんと手入れしてやらなきゃ駄目に見える。だから靴は玄関に揃えておいとけよ、磨いてやるからな!」
伊達に地方の名家出身ではない。
アーサーも自分の出自にいまさら興味などないだろうが、フランシスにとって大事なのはアーサーが自分に対して何をしてくれるかだ。自分の革靴を磨いておいてくれると言うシチュエーション、彼の思想に万歳、という以外ない。かわいい恋人が仕事に履く靴を磨いてくれると言う、こんなすばらしいことがあるだろうかいやない。むしろ彼以上にすばらしい恋人なんていない。
うん、今日も完璧、俺のアーサー。
勝手に妄想の中のかわいい恋人を愛でて、目じりとか口元とかがだらしなく緩んでいるフランシスはどうみてもおかしな人間だが、アーサーがかわいいのがいけないという言い訳を持ち合わせている彼は強い。人間は恋をすれば強くなれるって誰か言っていた。とか誰かが言っていそうで誰も言っていないことを考えながら歩いていたフランシスは、ガラスの前でふと足を止める。
駅前の不動産屋の前だ。
昨晩、天気予報を見ながら、そんな会話があった。
フランシスが住んでいるのは、学生街の、いかにも、な定食屋の三階だ。フランシスたちが通う大学の正門に通じる、少し坂になった道沿いに、しょうが焼き定食や、鯖の煮込みなどを五百円前後で出す、なんともレトロな定食屋がある。そこの二階が定食屋の親父と女将の住居で、三階をフランシスが間借りしているのだ。
三階は、もとはといえば大家夫妻の子供が住んでいたそうだ。だがその子供が家を出てしまって、三階を近くの大学に通う学生に貸し出すことにしたのだそうだ。格安物件であり、昼のかきいれ時や夜の居酒屋の時間帯に仕事を手伝えば、家賃とバイト代を少し折半してもらえる。もちろん美味しいご飯も出るし、少し夜が遅くなっても学生だから見逃してもらえる。
難を言えば女を連れ込めないことくらいだったが、四年生になってアーサーと出会ったフランシスにとってはもはやその障害もなくなり、これ以上いいところなどないと思えるくらい良い住処だった。
ただ、フランシスはもうすぐ学生でなくなるのだ。
「フランシス君は、ここを出たらどうするの」
昨日の晩、ご飯をよそって頂きながら定食屋の奥方に言われたとき、これから住みたいと思うところについて持っているビジョンを正直に口にすることは流石に出来なかった。行く先はあります、なんていったところで、せいぜい新社会人が何を粋がって、と思われて終わるだろう。寮がない職場だとはすでに話してあったし、フランシスは仕方がないので答えた。
「正直、何も考えていませんでした」
「急にごめんなさいね」
困ったような顔をして笑う奥方は、本質的には何もフランシスを追い出したいのではない。単に、この物件が学生限定物件なのだ。それを踏まえれば、現在四年生で卒業しようとしているフランシスがいつまでもここに居座っているわけには行かない。奥方の言いたいこともフランシスにはよく分かった。
「早いとこ部屋を決めちゃって、なるべく二月中に出たほうが」
「焦らなくて良いの、ゆっくり行く先を決めて。フランシス君はお料理も上手だし、家を丁寧に扱ってくれるし、もっと居て欲しいんだけど、どうしてもそうはいかないのね。私たちはこの街の学生さんを見守る仕事をしていかなくてはならないの」
本当にいい部屋にあたったのだと、この奥方の言い分を聞いてフランシスは思った。伝統ある定食屋を、曜日によっては任せてくれた。事情が会って正月に帰るところがないフランシスに、一緒にお節を作って正月を迎えさせてくれた。こうして見守られた後、自分たちは社会に飛び立っていかなくてはならないのだ。いい大家に恵まれて、いい部屋に住めた。
だから、屈託なく笑えた。
「わかりました、もう少しお世話になりますね」
「ええ」
目じりの皺が魅力的に見えるように老けた女性は、大体素敵だというのが相場だ。もう熟女には手を出す予定はないけれども、フランシスは改めてそう思った。
と回想しながら良縁に感謝することはたやすいが、現に目の前にはうっかりしていると屋根無しになってしまうという危機的状況があって、フランシスはとりあえず目的意識を持ってその不動産屋の前面に貼られている間取り図を見る。何も学生街に住み続ける必要はないのだが、フランシスたちの通う大学が都心にあるおかげで案外この辺りは利便性がいいのだ。そうすれば必然的に家賃も上がってくるが、正直なところフランシスには解いていない貯金が相当あるから、その辺りはさほど心配していない。
そうではないのだ。
したいことがある。春から住みたいところがある。彼も、きっとフランシスがそう切り出すことをうっすら理解はしている。すったもんだの末に、かわいくない言葉を吐いて、彼はおそらく了承してくれるだろう。ならばフランシスとしてはそれをどうやってロマンチックに切り出すかが問題なのだ。
はじめ、フランシスと話したいがゆえに国文学を専攻したいとかいうかわいい嘘をついたアーサーも、本当に自分が志望していた英文学の、それも自分がやりたかった教授のゼミナールに無事に選ばれる程度の一年生の成績を修めたはずだ。そうやって今からやりたいことをやるからこそ、彼を見守ってやりたいと思う。
ついさっき、出勤前にアーサーの部屋に立ち寄ると、大学の図書館に勉強をしに行っているかもしれないと思ったフランシスの予想に反して、アーサーは部屋に居た。机に本と並んでボックスティッシュが置いてあり、隣のゴミ箱は丸められたティッシュであふれそうになっている。
「男子高校生の部屋?」
「言いたいことはわかるがマジで黙れ」
口を開いた彼はひどい鼻声だった。
フランシスががちゃりと勝手に鍵を開けて入ってきても出迎えないで、部屋に通じるほうのドアを開ければフランシスが来るのに合わせて徐にアーサーはマスクをし始める。花粉を避けるとはいえあんまりな反応に思わず溜息をつきそうになったが、そこで自分の思うとおりに落胆を示してはいけない。彼は、べったべたに甘やかしてやらないと満足できないのだ。
「そんなひどいの?」
「お前花粉そんなじゃないもんな」
恨みがましい目で見上げてくるアーサーに、降参の意図を示して両手を上げる。マジでうぜぇ、と恐らく恋人ではなく花粉に対して吐き捨てた(と思いたい)アーサーは相当辛いらしい。
「今日は仕事だったな?」
「うん」
「そうか」
そんな辛い中でも、それもフランシスがスーツを着ていればわかるだろうに、わかりきったことを聞いてくるアーサーの俯いたまぶたやぎゅっとにぎられた手が、全身で寂しいと訴えている。これで自分の感情は表向きにはわかりにくいとか思ってるんだからかわいいよなあとか本人に心根の奥を聞かれないように気をつけながら、フランシスは三歩歩み寄って、机に座ったままのアーサーをぎゅっと抱きしめる。
たったこの三歩が、彼の心に近づける手段なのだ。
寂しくないと知らしめるための大切な手段なのだ。
「アーサーさえ良ければ、夜ご飯作りに来るけど」
ぴく、と腕の中の体がうれしそうに震える。見慣れたら、こんなにわかりやすい相手もいない。しかもそれが自分のしたことで喜んでくれるのだ。もう本当にかわいい、とアーサーに表情を気取られないよう思った。
「今晩、何か食べたいものは?」
「カレー」
「カレーだとお兄さん帰ってきてから作れば時間かかるし、あんまり手も込んでないカレーになっちゃうけど、それでもいい?」
「何ならすぐ食べれる?」
「そうね、鮭のムニエルなんかどう?」
ものを考えるときの癖で天井を仰ぎながら、出かける前にチェックしてきた駅前のスーパーのチラシを思い出して、フランシスはざっと献立を考える。鮭をメインで焼いて、付け出しに野菜、もし残ればついでに野菜スープでも作ってやろう。サラダは野菜の処理が間に合わないから今から勤め先で買って帰る。ちょうどアーサーの好きなオーガニックのサラダのブランドの担当者とも今日話せるだろうから、恋人に今日買って帰ってやるにはどのサラダがいいのか聞いてみよう。
ざっと献立を組み立てて、目の前のつむじに視線を落とす。
「ご飯、炊いといてくれる?」
「何合」
「明日の朝まで居るから、三合かな」
「ばか」
この場合のこの罵倒は、彼なりの了承だ。
もう付き合って半年以上経つのに、会話の中にさりげなく泊まりたいと言う意思を織り込めば、まだこういうところで照れるのがかわいい。夜は夜で変なところで大胆なのに、と思って、胸の中の存在に対して急に心臓が早鐘を叩いたのは聞かなかったふり。
「今晩仕込むから、カレー明日のお昼で良い?」
「良い」
とても短い返答をよこしてくる彼のつむじに、そっとキスを落とす。ぴくり、と驚いたように反応するその様がかわいくて、アーサー、好きだよ、と小さく呟くと、お、れも、という切れ切れの返事が聞こえた。
ああいうシチュエーションいいよね、やっぱ。
***
人呼んでプロポーズ大作戦。あとたくさんの人数を出したいと思っていました。
悪友+えるまー+北欧夫婦の友情出演。セミさんがこのお話ベースで北欧ペーパーを配ってくれました。
くしゃみが出た。そういえば花粉は今が盛りだとか、昨日の天気予報が言っていたとフランシスは思い出す。もともと自分が花粉症であるつもりはなかったのだが、こうもひどい量が飛んでいると、花粉症に馴染みのない自分もどこかで反応する要素があるのだろう。自分の両親が花粉症だったのかどうだったのか、たぶん誰に聞いてもわからないので、ひいては遺伝的に自分にその気配があるのかわからない。
とりあえず鼻の奥に湧き上がるよくわからないむずむずとした気配をやり過ごしながら、フランシスは駅への道を歩く。いい日和だ。一番寒さの山を越えて、少し曇りがかってはいるけれども、明るい空が天に広がっている。これから春が来るのだ。そして寒さも緩んでいる。こんないい日和に、と思ってフランシスは自分の格好を見下ろし、とりあえず溜息を吐く。
スーツに書類かばん。立派なサラリーマンのなりをしている。
二月も末だ。
月の半ばにあった学部の最後の試験は、おそらく問題なくパスしている。友人たちはひいひい言っていたが、なんだかんだでアントーニョは進学先が決まっているし、ギルベルトはどうせ五年生だ。だから騒ぎ立てることもないのだけれども、成績発表までは不安で仕方がないのは人間の心理だろう。
ただ四年制大学の学部の四年生の春休みなんて最後の暇な時期だし、まるでお声がかからない身の上ではないのだから卒業旅行にでも行けばいいのだろうけれども、そうはいえない事情が今日はあった。事前勤務での出勤だ。
スーツは春からの勤務先であつらえたものだ。百貨店という誇り高いサービス業につく以上、自分が良いものを知らなければならない。そう思って、フランシスが学部の四年間で殆ど使わず貯めこんだ親類からの仕送りの最初は、それに充てた。靴とかばんも揃えて、本当にこの金を使う機会があったことについてしばらく感傷に浸った。
それにしても自分の恋人は非常にいいことを言った。
「どんな良い素材も良い皮も、ちゃんと手入れしてやらなきゃ駄目に見える。だから靴は玄関に揃えておいとけよ、磨いてやるからな!」
伊達に地方の名家出身ではない。
アーサーも自分の出自にいまさら興味などないだろうが、フランシスにとって大事なのはアーサーが自分に対して何をしてくれるかだ。自分の革靴を磨いておいてくれると言うシチュエーション、彼の思想に万歳、という以外ない。かわいい恋人が仕事に履く靴を磨いてくれると言う、こんなすばらしいことがあるだろうかいやない。むしろ彼以上にすばらしい恋人なんていない。
うん、今日も完璧、俺のアーサー。
勝手に妄想の中のかわいい恋人を愛でて、目じりとか口元とかがだらしなく緩んでいるフランシスはどうみてもおかしな人間だが、アーサーがかわいいのがいけないという言い訳を持ち合わせている彼は強い。人間は恋をすれば強くなれるって誰か言っていた。とか誰かが言っていそうで誰も言っていないことを考えながら歩いていたフランシスは、ガラスの前でふと足を止める。
駅前の不動産屋の前だ。
昨晩、天気予報を見ながら、そんな会話があった。
フランシスが住んでいるのは、学生街の、いかにも、な定食屋の三階だ。フランシスたちが通う大学の正門に通じる、少し坂になった道沿いに、しょうが焼き定食や、鯖の煮込みなどを五百円前後で出す、なんともレトロな定食屋がある。そこの二階が定食屋の親父と女将の住居で、三階をフランシスが間借りしているのだ。
三階は、もとはといえば大家夫妻の子供が住んでいたそうだ。だがその子供が家を出てしまって、三階を近くの大学に通う学生に貸し出すことにしたのだそうだ。格安物件であり、昼のかきいれ時や夜の居酒屋の時間帯に仕事を手伝えば、家賃とバイト代を少し折半してもらえる。もちろん美味しいご飯も出るし、少し夜が遅くなっても学生だから見逃してもらえる。
難を言えば女を連れ込めないことくらいだったが、四年生になってアーサーと出会ったフランシスにとってはもはやその障害もなくなり、これ以上いいところなどないと思えるくらい良い住処だった。
ただ、フランシスはもうすぐ学生でなくなるのだ。
「フランシス君は、ここを出たらどうするの」
昨日の晩、ご飯をよそって頂きながら定食屋の奥方に言われたとき、これから住みたいと思うところについて持っているビジョンを正直に口にすることは流石に出来なかった。行く先はあります、なんていったところで、せいぜい新社会人が何を粋がって、と思われて終わるだろう。寮がない職場だとはすでに話してあったし、フランシスは仕方がないので答えた。
「正直、何も考えていませんでした」
「急にごめんなさいね」
困ったような顔をして笑う奥方は、本質的には何もフランシスを追い出したいのではない。単に、この物件が学生限定物件なのだ。それを踏まえれば、現在四年生で卒業しようとしているフランシスがいつまでもここに居座っているわけには行かない。奥方の言いたいこともフランシスにはよく分かった。
「早いとこ部屋を決めちゃって、なるべく二月中に出たほうが」
「焦らなくて良いの、ゆっくり行く先を決めて。フランシス君はお料理も上手だし、家を丁寧に扱ってくれるし、もっと居て欲しいんだけど、どうしてもそうはいかないのね。私たちはこの街の学生さんを見守る仕事をしていかなくてはならないの」
本当にいい部屋にあたったのだと、この奥方の言い分を聞いてフランシスは思った。伝統ある定食屋を、曜日によっては任せてくれた。事情が会って正月に帰るところがないフランシスに、一緒にお節を作って正月を迎えさせてくれた。こうして見守られた後、自分たちは社会に飛び立っていかなくてはならないのだ。いい大家に恵まれて、いい部屋に住めた。
だから、屈託なく笑えた。
「わかりました、もう少しお世話になりますね」
「ええ」
目じりの皺が魅力的に見えるように老けた女性は、大体素敵だというのが相場だ。もう熟女には手を出す予定はないけれども、フランシスは改めてそう思った。
と回想しながら良縁に感謝することはたやすいが、現に目の前にはうっかりしていると屋根無しになってしまうという危機的状況があって、フランシスはとりあえず目的意識を持ってその不動産屋の前面に貼られている間取り図を見る。何も学生街に住み続ける必要はないのだが、フランシスたちの通う大学が都心にあるおかげで案外この辺りは利便性がいいのだ。そうすれば必然的に家賃も上がってくるが、正直なところフランシスには解いていない貯金が相当あるから、その辺りはさほど心配していない。
そうではないのだ。
したいことがある。春から住みたいところがある。彼も、きっとフランシスがそう切り出すことをうっすら理解はしている。すったもんだの末に、かわいくない言葉を吐いて、彼はおそらく了承してくれるだろう。ならばフランシスとしてはそれをどうやってロマンチックに切り出すかが問題なのだ。
はじめ、フランシスと話したいがゆえに国文学を専攻したいとかいうかわいい嘘をついたアーサーも、本当に自分が志望していた英文学の、それも自分がやりたかった教授のゼミナールに無事に選ばれる程度の一年生の成績を修めたはずだ。そうやって今からやりたいことをやるからこそ、彼を見守ってやりたいと思う。
ついさっき、出勤前にアーサーの部屋に立ち寄ると、大学の図書館に勉強をしに行っているかもしれないと思ったフランシスの予想に反して、アーサーは部屋に居た。机に本と並んでボックスティッシュが置いてあり、隣のゴミ箱は丸められたティッシュであふれそうになっている。
「男子高校生の部屋?」
「言いたいことはわかるがマジで黙れ」
口を開いた彼はひどい鼻声だった。
フランシスががちゃりと勝手に鍵を開けて入ってきても出迎えないで、部屋に通じるほうのドアを開ければフランシスが来るのに合わせて徐にアーサーはマスクをし始める。花粉を避けるとはいえあんまりな反応に思わず溜息をつきそうになったが、そこで自分の思うとおりに落胆を示してはいけない。彼は、べったべたに甘やかしてやらないと満足できないのだ。
「そんなひどいの?」
「お前花粉そんなじゃないもんな」
恨みがましい目で見上げてくるアーサーに、降参の意図を示して両手を上げる。マジでうぜぇ、と恐らく恋人ではなく花粉に対して吐き捨てた(と思いたい)アーサーは相当辛いらしい。
「今日は仕事だったな?」
「うん」
「そうか」
そんな辛い中でも、それもフランシスがスーツを着ていればわかるだろうに、わかりきったことを聞いてくるアーサーの俯いたまぶたやぎゅっとにぎられた手が、全身で寂しいと訴えている。これで自分の感情は表向きにはわかりにくいとか思ってるんだからかわいいよなあとか本人に心根の奥を聞かれないように気をつけながら、フランシスは三歩歩み寄って、机に座ったままのアーサーをぎゅっと抱きしめる。
たったこの三歩が、彼の心に近づける手段なのだ。
寂しくないと知らしめるための大切な手段なのだ。
「アーサーさえ良ければ、夜ご飯作りに来るけど」
ぴく、と腕の中の体がうれしそうに震える。見慣れたら、こんなにわかりやすい相手もいない。しかもそれが自分のしたことで喜んでくれるのだ。もう本当にかわいい、とアーサーに表情を気取られないよう思った。
「今晩、何か食べたいものは?」
「カレー」
「カレーだとお兄さん帰ってきてから作れば時間かかるし、あんまり手も込んでないカレーになっちゃうけど、それでもいい?」
「何ならすぐ食べれる?」
「そうね、鮭のムニエルなんかどう?」
ものを考えるときの癖で天井を仰ぎながら、出かける前にチェックしてきた駅前のスーパーのチラシを思い出して、フランシスはざっと献立を考える。鮭をメインで焼いて、付け出しに野菜、もし残ればついでに野菜スープでも作ってやろう。サラダは野菜の処理が間に合わないから今から勤め先で買って帰る。ちょうどアーサーの好きなオーガニックのサラダのブランドの担当者とも今日話せるだろうから、恋人に今日買って帰ってやるにはどのサラダがいいのか聞いてみよう。
ざっと献立を組み立てて、目の前のつむじに視線を落とす。
「ご飯、炊いといてくれる?」
「何合」
「明日の朝まで居るから、三合かな」
「ばか」
この場合のこの罵倒は、彼なりの了承だ。
もう付き合って半年以上経つのに、会話の中にさりげなく泊まりたいと言う意思を織り込めば、まだこういうところで照れるのがかわいい。夜は夜で変なところで大胆なのに、と思って、胸の中の存在に対して急に心臓が早鐘を叩いたのは聞かなかったふり。
「今晩仕込むから、カレー明日のお昼で良い?」
「良い」
とても短い返答をよこしてくる彼のつむじに、そっとキスを落とす。ぴくり、と驚いたように反応するその様がかわいくて、アーサー、好きだよ、と小さく呟くと、お、れも、という切れ切れの返事が聞こえた。
ああいうシチュエーションいいよね、やっぱ。
***
人呼んでプロポーズ大作戦。あとたくさんの人数を出したいと思っていました。
悪友+えるまー+北欧夫婦の友情出演。セミさんがこのお話ベースで北欧ペーパーを配ってくれました。