透明すら剥がされる

学ヘタ、「青春エナメルグラフィティ」以下文化祭群の続きのような。


 文化祭が終わって翌日は休校日で,結局学校でどろどろになるまで行為に及んだ後,フランシスに連れられて学校の寮に戻ってきたのがほぼ日付変更線で,個室まで送り届けられたところくらいまでしか記憶がない。何も出来ないで一日の半分くらいを寝て過ごしてしまった。それから紅茶をのろのろと入れて,その作業中,砂時計を返したところで自分の爪の色に気づいた。
 気づいたというかすでに自覚がなくなっていたというか,その色はすでに桜色に染まっていて,そういえば彼にそうして染められたことを思い出した。この爪で,何度も彼の背中や二の腕にすがりついたのだ,と思うと,なんだかよくわからない心境に陥れられた。
 願えば願うほど仇になる。
 見れば見るほど嵌っていく。
 つまるところその爪の色など見慣れた自然とはほど遠く,桜色というカテゴライズをしてもなおどこか人工的な傾向を含む。その爪から立ち上る何かわからないどろどろとした甘い気配がまるで彼のように見えて,そう見えること自体がまるで恋い焦がれているようで,よくわからないままにただそれを切ないとアーサーは自覚した。
 寮の部屋の構造は,ベッドと机のある部屋は一人一つ与えられ,それが六つ集まりキッチンやバス・トイレを伴い中有部屋を形成する。休校日の今日は同室の者は大体出かけてしまっていて,もう昼下がりと言えるような時間には共用スペースに誰もいない。フランシスももしかしたら誰かと共に出かけてしまったかもしれないし,まだ寝ているのかもしれなかった。
 ただアーサーにとてはいずれにしても問題ではなく,この衝動が訪れた場にかの男のないことがつらいのだ。こんな衝動をアーサーは受け入れ慣れていない。目の前にある事実はただフランシスが欲しいと言うことだけだ。こんな思いをさせられたことは,あるようでない。
 砂時計が落ちるまでまだ少しある。
 訳のわからないよう衝動に訪れた胸を圧迫するような吐き気を必死にやり過ごす。知ってはいるのだ。今更アーサーの知覚できる世界から彼を追い出すことなど出来やしないのだ。恋に落ちたという一つの事柄は至ってシンプルに過ぎない。ただ,そのシンプルなたった一つの事象に,うまく向き合うことがまだ出来ない。
 砂が落ちる。まるで鉄か鉛で出来たかのように動くことをいやがる腕を,なんとか持ち上げてティーバッグをマグから持ち出した。あの男のことで悩むのなど心底ごめんだ。ダストボックスに湿り気を帯びたままのティーバッグをシュートする。しずくが袋の中で不快な音を立てて跳ねる。
 いったいいつから自分はこんなに彼なしの生き方を受け入れられなくなったのだろう。
 情けないやら何やらでマグの上で手を組む。やはり目に毒と言えるような,不自然な色が視界を独占しようとはたらきかける。そうっとしておいてほしいのかと,アーサーはそれを見て思う。
 訳もわからないような衝動が,呼んでいる男は一人しかいないのだ。
 やらなければならないことなど山ほどある。自分個人がこれから生きていく上で必要な諸々,生徒会長としてやらなければならないことなど,掃いて捨てたって人生は課題ばかりが続く。それなのに,どうしても彼に腕を伸ばさなければならなくなる理由がわからない。
(こんな染められて)
 衝動のおそうまま,左手の薬指の爪を覆う塗料の固まりの端に別の爪を立てる。ひどく丁寧に色を乗せてくれた彼の表情や息づかいを覚えている。
 そう,彼がいまここにいないことが悪いのだ。
 爪の根本の方からうまく浮いたので,それをつまんでひと思いに剥がそうとしたけれども,どういう風になのかはわからないけれども,爪にへばりついた塗料がはがれまいとしている刺激が結局自分の痛みになって帰ってくる。どうしてあの男に対するこんな訳のわからない衝動のために,自分が痛い思いをしてやらなければならないのか。
 たまらないでびり,と音を立てて爪を剥ぐ。
 爪の表面の薄皮が破れて,白く毛羽立っている。このまま荒れているのがよくないことくらいは,美容に詳しくないアーサーにもわかった。それでも,ほかの爪と違って本来のすこしばかりにごった爪の色を取り戻して,安堵と同時に寂獏が身を襲う。
(自分を痛めつけても,彼に触れられないんじゃ意味がない!)
 不意にがちゃりと音がする。フランシスの個室のドアが開き,まだどことなく眠たげな彼が現れる。アーサーの手元の紅茶を遠目に認識してから,アーサーのしていることを認識したらしい彼は,きっちりとした顔をだらしなくしかめた。
「紅茶一口頂戴,あと,除光液使わなきゃ駄目でしょ」
 ああこのどうしようもない昼下がり。
 しかし彼はここにありそして自分はいまからどうにでもこうにでも彼のことを独占できるのだ。
「起きるのが遅い野郎に飲ませる紅茶があるわけねぇだろ」
 マニキュアを剥いだ左手をとられ,手の甲に口づけを落とすなんていうきざな仕草を迷わずにできる同級生がフランシス以外にいるとは思えない。そして,それを当然のように受け止められるのも自分しかいないはずだ。
「そんな寂しそうな顔をして言うことは可愛くないのね」
「俺にかわいさを追求してたのか?」
「まさか」
 手の甲から,ゆっくりと爪の先までキスが動く。ささくれた爪の皮を,彼の唇が暖める。何層も重ねられていたはずの色の奥から現れた地の色までも,彼の色に染められているのだとは,知ってはいるけれどもわかりたくない。

***

ジェルをがりがり剥ぎながら,絶対アーサー除光液なんか使わないよね! と思い立って書いた一品。
高校生だからネイルなんか甘んじて受け入れてくれるので,ここはひとつ高校生で。
20090611