マーブルボウル

流れ出る音楽だけは美しい。本当に妙な街だ。


 日本に教えられたことわざに,郷に入りては郷に従え,というのがある。確かにもっともだと思う。自分のあり方をどこまでも追求しようとするのはそういった考え方をする人間が勝手にすればいいことであって,イギリスはそのあたりは割と自分でも流動的だと思っている。
 というか,単純にこの国では朝から美味しい紅茶にありつけないのだ。
 朝からの会議に出来ることならば前泊で入りたかったが,仕事の都合がつかず断念した。仮眠をとって始発のユーロスターに乗り込めば,乗車時間のあいだやたらよく寝ることが出来た。この鉄道が出来てすぐの頃の,何度乗ってもさっさと彼に会いにいけるのがうれしかった真新しさは流石に薄れてきた。というか本人を相手にそんなことを言えば絶対に調子に乗るので言ってやることは一生ないだろう。とりあえず,会議に睡眠不足で入るわけにはいかないと決めていた以上よく休めたことは喜ばしいことだった。おかげで大陸側についたときにはだいぶ頭もすっきりしていたが,いかんせん朝食を食べていない。
 会議までにはまだ一時間と少しあって,本当はあの男の家に押しかけてもいいとは思ったのだけれども,そんなことをするのはなんだか甘えているようだし,会議前にそんな,彼と二人きりで会うなんてなんというか情勢的によくないに決まっている。情勢以上に,自分の精神状態の面でよろしくないに決まっているのだが,イギリスは流石にそこまで認める気にはなれなかった。
 本当は,濃いめに入れたミルクティを飲みたい。サンドイッチが食べたい。朝から,一通りの食材を胃に入れたくて仕方がない。しかし,ここは大陸で,いけ好かないのに甘えたくなる男の習慣のある国で,どうやらこの国では朝食は軽んじられる傾向にあるらしい。全く持っていけ好かないことこの上ない。
 そうはいっても会議場のそばにあるカフェで,ないサンドイッチを出せとわめいても相手を困らせることになるとイギリスは承知している。おそらくイギリスのかっちりと着込んだスーツから,すでにイギリスが海を挟んだ向かい側にある,野蛮な島国からの来訪者に違いないと察しているであろうカフェのウェイターにそれ以上小馬鹿にされるのもしゃくだし,ということで,いまイギリスの目の前にはとびきり甘いカフェオレと,少しだけ人よりも多く乗せてもらったクロワッサンがある。
 周りのフランス人を見渡せばだいたいがそれをカフェオレに浸しながら食べるわけだが,残念ながらイギリスはそこまでパンを浸すことに好感度は高くない。少し柔らかくなって租借しやすくなるのは結構だが,起きたら歯ごたえのあるしっかりとしたものを食べたいイギリスとしては物足りない食感なのだ。
 カフェは比較的朝早くからやっている。そして感心なことに,今日はカフェにピアノボーイがきちんといて,すでに客に音楽を提供している。この国で,午前ひとけたの時間にはとても珍しいことだ。
 少し曇った空にふさわしく,まるで海の底を泳ぐようなよく聞き慣れた音楽が,やはりこの国の,この若者の感性で披露されている。海の底を走ってきたのにもかかわらず,そんな優雅な時間を楽しめなかったイギリスは,この曲はわりと好きだ。
 認めたくないことにフランスの音楽家は比較的好みなのだ。
 ドイツやオーストリアの得意とするかたい音楽はもちろん耳になじむのだが,それ以上にフランスの印象派と呼ばれる音楽は体の随まで染み渡ってくる。水につかっているときに骨の中までたゆたう感じがするのに似ている。イギリスが,まだ幼かった頃,緑の残る島の中で感じていた気配が,その音楽の中に残っているのだ。
 クロワッサンしかない街で,紅茶もたしなめない街で,それでも自分の心を楽しませることの出来る音楽のあるこの街で,何度もこの国に渡ってきたことのあるイギリスの考えた結論は,結局のところこの国の人々が好むような朝食を,自分もそれなりに楽しむことがもっとも効率的だ,ということだった。
 そんなわけで,イギリスは会議の朝,それなりにフランスの朝食を楽しむ。
 ホスト国の性格に合わせて,会議の開始時刻はほかより少し遅い。新作の新書をいくつか買ってきたのは正解だった。フランスの本屋で,奇跡的に早く開くような店があれば,この国が得意とするところの,綺麗を通り越して鮮烈な色遣いの絵を眺める類の本でも買いたかったのだが,まあ案の定そんな店があるわけもない。
 そう思ったのは,英語の細かい字の並ぶ新書など読んでいては,またかの国に小難しい本ばっかり読んで,とからかわれることが一つ,単純に彼の持ち合わせるそういった特異な色彩感覚に案外なじむことが一つなのだが,ないのではしかたがない。
 従ってイギリスは,右手で時々クロワッサンにぱくつきながら,たまに本をひっくり返して置いてカフェオレボウルからやたらと甘いカフェオレを飲みながら,暇をつぶしているのだ。
 しかし,本のページが進まないことを自覚しなければならない瞬間だってある。
 クロワッサンを適当に手にしようとした爪が,白い皿の表面にかつんと音を立てた。
 どうも本の片手間に食べきったらしい。
 やはりこの国の習慣的な朝食では足りない。イギリスはため息をついた。食べきってしまったものを嘆いても仕方がないけれども,まだ物足りないことは事実である。
 ページが進まないのも微妙な空腹感のせいだ。胃をいっぱいにして,それから集中して作業に取り組むのがイギリスのやり方だ。だからあの男と過ごしていると隙あるごとに食べ物を繰り出してくるものだからいつも食べ過ぎてしまうのだがそれはさておき,アルファベットを追うことに集中できない。
 空を仰げばやはり少しばかり灰色がかったままで,会議にはあと30分と少しある。もう議場に入ってもいい時間ではあるのだが,この街の時間の流れになれてしまった自分は,もう少しゆっくりとくつろいでいたい気持ちもある。
 海の底をたゆたうようだった音楽はいつのまにか,同じ作曲家の有名なシャンソンに変わっていた。まだシャンソン歌手は来ていないのだろうか,ピアノボーイがメロディラインもなぞっている。軽快なメロディで,彼の国らしい重さと軽さを混ぜ込んだ愛を歌い上げるこの曲は,あまりイギリスにとっては印象がよくない。
「願いはたった一つだけ」
 ほら来た。
 カフェにいるフランス人の男の中でも,ひときわ目を引く華やかな男。
 当たり前だ,この国の中でもっとも国民性を表す男だ。
 イギリスは敢えて彼を見ない。軽く歌を口ずさむ彼を見てしまえば,訳のわからない圧力で彼の世界に取り込まれてしまう。この曲はそう言う曲だ。
 イギリスはフランスの歌う姿は見たくはない。だから目を閉じる。目を閉じればカフェの雑踏に紛れて歌を口ずさむ彼の声と,それから遠くからピアノの音だけが聞こえる。ここは花の都,仕事できたなどただの言い訳に過ぎなくて,言ってしまえば彼の領域、彼だけが支配できる空間。
 イギリスが,少し物足りない朝食で我慢してしまう空間。
「私の望み,あなたがほしい」
「仕事しろ」
 短く吐き捨てるけれども,イギリスが目をつぶっていることなど簡単に予測できるだろうに,それでもその目を手のひらで覆って,まるで甘いシチュエーションを作れば総ての相手と恋に落ちることが出来ると思っていそうなこの男が,なにもかもにおいて自分の相手なのだ。
 手をはねのけて,目を開く。
 空は相変わらず灰色に濁っている。
 少しだけ残っていたカフェオレはやわらかなベージュ。
(ああ,ミルクティが飲みたい)
「おはようイギリス,議場にサンドイッチがありますよ」
「別にお前のために食ってやるんじゃなくて,俺が腹減ってるからさっさと行くだけだばか」
「そんなの知ってるけど?」
 異国だ。イギリスは自分にそう言い聞かせた。

***

カレーが美味しくて,カレー屋のラジオが先週の日曜日がサティの誕生日とか言うから,毎日が仏英記念日。
当該カレー屋が好きすぎて週2回同じカレー屋に行ったことをやっといま自覚しました。
ちなみに曲はジムノペティとジュ・トゥ・ヴです。
20090524