或る高校生の一日

「アーサー,手ェ貸せ!」


 フランシスが手をさしのべて,アーサーはそれをひらりと掴む。それに素直に従うのは、つまり今が朝で風紀委員が遅刻の判子を押す直前だからだ。瞬発力のダッシュにかけてはアーサーの方が早いが,寮から門までの絶妙な遠さに関しては彼の瞬発力よりフランシスのスタミナの方が勝る。そりゃその程度上回っていないと,夜の彼相手には勝てやしない。いや,そんなことは考えるだけで蹴り飛ばされるのでわざわざ言わないけれども。
 いずれにしてもアーサーにとってフランシスの手を取るなどと言うのはこれでもかというほど屈辱的なのだろうが,荷物を貸してそれでも速く走るには彼の手を掴んで引かれるのが早いのは,アーサーも分かっているらしい。
「カウント取りますよー,五,四,三」
「よっしセーフ!」
 今朝もかわいらしい笑顔と得物のフライパンと遅刻カウント用の時計を手放さないエリザベータが,視線を遠慮なくフランシスが取ったアーサーの手に注いでいる。目線だけで,ほんのすこし,五秒分の猶予をくれた彼女に感謝する。こちとらそれを見計らってやっているので,エリザベータはネタに使いますと目線だけで答えてくる。
 安いご用だ。
 はぁはぁ,息が上がっているアーサーの様子は結構ぐっときた。しかも無意識なのだろうが手を離さないどころか,縋るものか何かと思っているのかきつく握りしめてくる。お,坊ちゃん朝から積極的だ,と声には出さずに思う。
「アーサー,ここで止まってたらHR間に合わないよ,行こう」
 フランシスに取られた手を引かれて漸く状況を把握したのか,アーサーはつないだままの手を見下ろして,おもむろにフランシスに右ストレートを決めてくる。おぶぁとひどい悲鳴を上げて,吹っ飛ぶフランシスを置き去りにアーサーは昇降口へ急ぐ。
「ああもう,貴方は漸く身を修めたと思ったらこれですか」
 姿を確かめなくても口調で分かる。中学校からの同輩であるローデリヒだ。性愛への目覚めの時期を共にあったので,ローデリヒにとってフランシスは相変わらず性的な意味でやんちゃをやめない下らない同輩だろう。
「何ローデ心配してくれんの」
「馬鹿を言っていないで早く教室にお上がりなさい」
 そうはいっても右ストレートの直接入った脇腹に熱がぐるぐると集まって気持ち悪い。まして朝からあんな息の上がった刺激的な姿,高校生なんだから性への興味は仕方ないと開き直るフランシスには毒でしかなかった。
「……具体的に何を考えてらっしゃるかは存じませんが,だらしない顔を何とかなさい」
「ローデリヒさんにそんな顔を見せるのは許しません!」
 肝心の委員長よりもだいぶ怖いフライパンの少女に両手を挙げると,さっさとフランシスもアーサーを追うように校舎に入る。残念ながらとっとと靴を履き替えてしまったらしいアーサーは既に居なかったが,今日もどれくらいアーサーに幸せにしてもらえるかをフランシスは楽しみに思う。

+++

 朝寝過ごしたせいで,昼になっても弁当がないフランシスは,しかし4時間目を寝て過ごしたため昼休みの購買戦争に出遅れた。いつも共に昼食を囲むアントーニョとギルベルトが,起こしてくれなかったあげくに何も買ってきてくれなかったことに思わず恨み言を漏らす。
「お兄さんお前らとの友情を信じてたのにー」
「いやお前のことやから昼なんて持ってきてると思ったんよー」
 ごめんなー,と謝りながらもアントーニョはまさかパンを分けてくれるような空気を読む能力は備えていない。ギルベルトに至っては良いだろ! 今日カレーパンだぜ! とか言って自慢してくる。この学校のカレーパンはどういう訳かとても旨い。いやお兄さんが作った方が旨いけど,とか言ってみたいが,学食のおばちゃんのものをさておいてそんなことを言えるほどフランシスは自己主張が激しいわけではない。
 もう一人いつも自分の弁当を持たされているアーサーは昼を確保できただろうか,と視線をぐるり見回す。教室にその姿はなかった。学食にでも行けただろうか。昼休みが始まって既に20分,出遅れていることは分かっているから今更あがこうとも思わない。
「もう勝手にしろ」
 自分の席の周りのいすを適当に持ってきて座るアントーニョとギルベルトは放置して,フランシスは机に突っ伏した。せめて寝ている方が食欲を紛らわすことが出来る。だいたいそもそもこんなに眠れていないのだってアーサーのせいだ。いや,アーサーが魅力的すぎて自制が出来なかったのが理由か。でも結局アーサーが無意識か自覚してか誘い込んでくるからやめられなかっただけだ。
 不意に,適当なことをくっちゃべっていた頭上の二人が,ひ,と声を上げて固まる。
 このリアクションは,フランシスは昨晩のアーサーの様子を思い出してにやついていた表情を治す意志すら持たずに顔を上げて振り向いた。アントーニョとギルベルトがアーサーを苦手に思う理由はまぁアーサーの素行と自分ののろけ具合にあるのだろうが知ったことではない。振り返ると,少し何かを隠して赤い顔の彼が居た。
「気持ち悪い顔」
「ひどっ」
「しまりねぇな。なんのこと考えてたらそんな顔になるんだ」
「アーサーのこと?」
 しれっと正直に答えてやると,なぜかもともと顔の赤かったアーサーはさらにまた額とか普通にしてたら赤くならないような所まで感情の過多で赤くして,ああ,どうしたのだろう,とフランシスは思った。そんな可愛い顔を誰彼構わず見ることの出来る教室でさらさないでほしい。
 いろんな意味で自分が抑えられない。
「で,どうしたの」
「お,前,昼食ってないだろ」
 ああ,と頷くと,アーサーは後ろ手から手のひらくらいの包みをフランシスに顔面に押しつける。この匂いは,包みを開けなくても分かる。学食のカレーパンの中でも,20円余分に出すことで肉を余分に包んでくれているものがある。限定数だから毎日とんでもない争奪戦が起こるのだ。
「べ,別にお前のために買ったんじゃないからな! 俺が買いすぎたけどもう食えないから,食うもんがないお前に俺の慈悲深い気持ちでやるだけだからな!」
「うんアーサー,ありがとう」
 とびっきりの笑顔を浮かべると,更にアントーニョとギルベルトが背後でがたんと音を立てて距離を開けたのが分かった。しかし,アーサーはこうやって緊張が極度の状態になっているのならば周りは見えていない。フランシスはありがたくこの状況を楽しんでおく。
 もう,遅刻するほど夜更かししないからな,なんて台詞,我に返った彼から聞けるはずがない。うんうんと素直な顔をして頷いてやるのもむなしく,ギルベルトが飲んでいた牛乳を吹いた。
「うっわおまえ汚いな! ちゃんと片付けろよお兄さんの机」
 ギルベルトを片目でしかりつけながら,もう片目でアーサーの攻撃を見きる。渾身の左ストレートを掌底で受け止めるのは至難の業だったが,今度はしのいだ。というか勝手にデレておいてこの殺人機能はどうにかならないだろうか。
「お昼ありがと」
 手を止められて一瞬動けないアーサーの耳元に,ちゃっかり吐息を吹き込むと,右手のアッパーが決まった。こりへんなぁ,というアントーニョのつぶやきはかろうじて聞き取れた。

+++

 放課後になってアーサーが生徒会室で執務をしている間,フランシスは校長にいくつかの書類の判子をもらいに行った。アーサーは校長相手に無能呼ばわりをして作業がいつまでたっても進まないから,この方が適任なのだ。いつも校長室に少し留め置かれて高い菓子を頂くのも,フランシスにとっては悪くない条件だ。
 しかし今日はフランシスが書類を持っていった直前に校長は来客があったらしく,いつもの語らいはなくて済まない置いておいてくれだった。願ったりかなったりだ,わざわざ校長と話すのはけして楽な仕事ではない。
 従ってフランシスは思ったよりも早く生徒会室に戻った。すると中から声がする。
「なるほど,またフランシスさんに流されたんですか」
「教室であんなことされてたまるか」
 アーサーの数少ない友人の、菊の声がした。流されたというのは例えば今朝の手の件とか,昼の発言の件とかだろうか。面白くない,とフランシスは少し思った。そんなことを思うのだったら,自分に言ってくれた方がもっと甘やかせるのに。
「なんだかんだお許しになってしまうのですから,構わないではありませんか」
「菊はそんなときどうするんだ」
「尊厳に関わらないときには相手の方の好きにさせて上げます」
 そんなことをさせてくれるのだったら,と思ったが,フランシスはありえないなと直後に否定した。自分の相手はアーサーだから意味があって,菊ではないのだ。つまり,アーサーがどう思っているかを知りたい。
「別にあいつに流されるのが嫌いじゃないんだ……ただ,狡いなって思うだけで」
「狡い?」
「あいつだけ笑ってる余裕があるみたいで,俺,いっつもこまる」
 なんてかわいいことを言うのだろうか。
 フランシスにそんな余裕があるかと言えば,あった試しなどありはしない。けれども,アーサーは万が一自分が焦れば,つられて焦るようなかわいらしさを備えている。だったら,そんなことで気を遣わせたくないのがフランシスの思惑なのだ。
「フランシスさんは誰よりもアーサーさんを大切に思ってらっしゃるから,自分の緊張を表に出して貴方を戸惑わせたくないのですよ。余裕があるように振る舞うだなんて,いっそうすばらしい自制だと思います」
 ああうれしい自分が菊に自制という言葉を使ってもらえるなんて!
 しかしこれ以上菊に任せるのも気がとがめるので,さりげなさを装ってがらがらと扉を開ける。菊はこちらを向いてにこりと笑った。いたのに気づいてるんですよね,わかります。
「あ,はやかった,な」
「校長取り込み中で」
「それではこのあとも頑張ってくださいね。私はこれで」
 菊は小さく一礼を取ってさっさと生徒会室を出て行く。フランシスはアーサーの方に目を転じる。ああ,そんなおいしそうな動揺した目をされたら,装っている余裕がガラリといってしまう。だってこちとら,まだ高校生。
「こ,ここではいやだぞ!」
「なーに坊ちゃん,なんかスイッチ入ったの? じゃさっさと寮に戻ろっか」
 あくまでもさっきの話など聞いていなかった,無駄な余裕を装う振りをやめずに,アーサーに畳みかける。ずっと先まで共に居るか分からないと時に思う。高校から出た後いつでもあえる保証などない。だからこそ,大切に思っていることを分かってくれたら,それ以上うれしい事なんてないのだ,本当のところは。
 アーサーは何か意を決したように立ち上がると,今日はもう暴力はやーよと首をかしげるフランシスの首の後ろにやたら強い力で腕を回す。お,と思うまもなく,フランシスの上体をぐっと引き寄せてアーサーは唇を押しつけてきた。
「……襲うよ?」
「動揺したか?」
「多々」
 制服のズボンのファスナーの辺りを,ぐりぐりとアーサーの腰に押しつけると,アーサーは少し身を引いてから,しかし本来の下校時間のチャイムを聞いて,にいと笑った。下校のチャイムよりも後まで居られるのは生徒会特権だ,そんな風に誘うアーサーを捨て置くわけにも行かないし。
 してやったり,と小さく呟くアーサーのかわいらしい薄い唇を,一気に上から食べる。少し調子に乗ったのならば,こちとらその思いの丈をぶつけることも許されるだろう。余裕を見せて笑っていた表情はすぐに酸素を求めて苦しそうになる。その顔を見て黙っていられるほど枯れては居ない。
 明日生徒会室に入ったら無意味に殴られるんだろうと分かっては居ても,もう,止められない。

***

はじめには三本別々のお話で思いついたんですが,これつながるんじゃないと思って。
高校生でちょっと余裕のない兄ちゃんにときめきを隠しきれません。
20081209