涙よ、ひれ伏せ

※フランス革命後の歴史的事実を意識しています。


 一思いに身を裂くような,恋のようなものの訪れを,未だに待っている。彼をうらやみながら,憎みながら,そしてその身を裂いてそれから自分も消えてしまえるような,そんな衝動は,幾度も体験しながらそれでもやめられない衝動,的な。

 フランスは庭のベンチの背もたれに身を預けると,さも疲れた様子で,くったりと笑った。大陸にいるのがしんどいと,そう言ってドーヴァーを渡った彼が,この海を渡ることができたことはきっと奇跡に違いない。今はただでさえ交通が規制されていて,さらに彼のような存在がドーヴァーを渡って直ぐそこの穏やかな港町にあることが分かれば,どちらかの立場のものがきっと彼を奪い返しに来る。それを知っているから,知っているからこそ,イギリスは自分自身の別荘を彼に貸してやった。ヴェルサイユに,パリに,叩き返してもいいのに,なぜかそうできなかった。
「ありがとね坊ちゃん」
「今だけだからな」
 それどころかイギリス自身も時間ができたらその別荘を訪れてやって,様子を見てやっていた。自分が彼の元から独立するために暴れる前のことを考えても,そんなにしょっちゅうフランスと会えて,そんなに穏やかに話せることなどなかった。今のフランスが己の体力でもってイギリスに立ち向かっても勝てないことが分かっているということを差し置いても,自分は甘い。どう考えても。
 なのに,具合が悪そうに,そういえば少し痩せた青白い顔でイギリスの訪問を歓迎するフランスは,そのことを指摘もしなければ,嬉しそうに笑うものだから,イギリスはすっかり毒気を抜かれてしまっていた。いつもこのくらい穏やかな関係でいられたら,きっともっと歩み寄れたはずなのに。
 今回のフランスの具合が悪いのは,外的な事情というよりも内的な事情だから,外からその原因が見えづらい。オーストリアが圧力をかけているといっても,内的に事情がなければ痛くも痒くもない程度のはずだ。背もたれに沿ってだらりと力の抜けた体を見るとなぜか壊したい衝動に駆られた。
 やりすごすために,とりあえず声を掛けてみる。
「弱ってるお前なんか殴る気も失せるから,さっさと何とかしろ」
「何とかするならイギリスいっそ介入しちゃってよ」
「やだよ自分ちの問題だろ」
 ああ,と気付かされる。
 彼を壊すのも,弱らせるのも,イギリスだけの特権だと思っていた。大陸国がいくらフランスに手を出そうとも,フランスはイギリスをどうにかするまではけっしてどうにかなったりしないと信じていた。
 だけれども今,他の誰にもない自分自身の中で苦しめられているフランスはどうにかなってしまわない保証なんてどこにもなくて,共和政が樹立されたはずなのに安定しない国の中味が彼の衰弱を煽っていることが目に見えてわかって,思わず目を背けたそのときにフランスは呟いた。
「身を,切られる思いだね」

 たまらずだらりと垂れ下がる彼の体に覆いかぶさるように膝に乗って,逞しい骨の形だけはまだ失われていないフランスの首を両手の親指と人差し指で挟む。力を加えれば今なら絶対に絞め殺せる。仇敵を,一思いに。どうして魅力的なはずのそれを実行できないのか。膝に精一杯重力をかけてフランスの動きを止めてはいたが,多分フランスは本気で絞め殺しに掛かっても今なら抵抗しない。
「許さねェぞ」
「イギリス」
「テメェを殺すのも生かすのも俺だ,テメェ自身なわけないだろ」
「イギリス,口が悪いよ」
「だから,頼むから」
 言いながら,頬を熱いものが濡らして初めて自分が泣いていることに気付いた。人は,どうして泣くのだろう。哀しいから。辛いから。怖いから。どれも当てはまるようで,けれどもどれも認めたくなかった。
 これでは,まるで。
「泣かないでイギリス」
「うるさい,テメェが,死にそうだから」
「お兄さんがそう簡単に死ぬわけないでしょ」
「あったりめェだ馬鹿,」
 しゃくりあげるイギリスの背中に,辛そうにフランスが腕を回した。好むと好まざると何度もこの腕の中に収まったことはあるけれども,こんなに彼に縋ろうと思ったことなんて覚えもない。愛しいといえばきっと正解なのだ。憎らしいといってもきっと正解なのだ。己の身をもって運命に立ち向かっているのか翻弄されているのか分からないこの男を,イギリスは手に入れたいのだ。
 ただ己の手だけを使って。
「俺が絶対殺してやるから,自分で自分の身を切られて死ぬなんて,絶対,絶対許さねェ」
 涙で滲んだ視界の先,フランスは多分笑っているけれども,自分の身が切られる思いをしても絶対に泣かないフランスを思えば,自分が泣かなければたぶん誰も泣けないからこれで良いんだと思う。
 フランスは何も言わなかった。

***

時系列で言うと1794前後,ロベスピエールの結果的な独裁の中,貴族が軒並み処刑されていくことに疑問を持った民衆にとっても,殺される貴族にとっても絶望の時期だった頃でナポ公がでしゃばる直前を意識。もう少し具体的に言ってしまえば「ベルばら」のあとで「紅はこべ」の世界観です。これがまたアメリカ独立戦争後だと思うと,もうすごいことになる。床に転がらざるを得ない。なんでイギリスがフランスをこの時期フルボッコしてないのかと思えばやっぱイギリスはツンデレだと思います。
この前後で時系列を立ててやらかしたい願望はじっくりあります。

お題は「悪魔とワルツを」より。
20080923初出