エデンに眠る

目を瞑れば,透明な糸が見える


「何か欲しいものはあるか」
 急に声をかけられて,少し驚いて読んでいた本から顔を上げた。近頃は多忙を極めていたのか,ドイツが時間通りに帰ってこられることは珍しい。もうこれといって関わるべき物事がさほど多くもないオーストリアの手元にまで書類が舞い込んで来る始末だから,ドイツの忙しさが尋常でないことはオーストリアにも分かっている。だから,ドイツが何故このタイミングでこんなことを言い出したかも分かっているが,何か注文をつける気にはなれなかった。
 仕事から戻って食事を済ませ,シャワーを浴びてきたドイツをオーストリアは別に待っていたわけではない。居間で本を読んでいたのは,別に期待していたわけではない。だから,何ということもない顔をして,答えた。
「特にございませんよ。わたしは貴方にとって居候ですし」
 小さく笑って,オーストリアは読んでいた本にしおりを挟む。考えればもしかしたらなにか候補が浮かぶかもしれないけれども,いまのドイツにそれを要求するつもりはない。
 自分にまで仕事が立て込んでいるのに暢気に読書に励んでいるというのは,つまり,今日だけは休みを言い渡されたわけで。ソファーにローテーブル,紅茶という,割といつもの時間を過ごしていたのだ。珍しいのはそれが久しぶりの休みだということくらいで,ドイツは別にオーストリアが誕生日だからと言って休みがもらえる相手ではなかったから,これは結論から言えばまぁ当然の展開で。
 断じて,傍に居てほしかったなんて,まさか。
 ドイツはオーストリアの向かいに腰を下ろした。冷蔵庫で冷えていたカルヴァドスを持ってきたらしい。スクリューを開けて瓶に直接口をつけて飲むその濡れて降りた前髪から覗く伏せた目元と曝け出された咽喉元に,欲情をしたところで彼にはいつも言えそうにない。
(だって,彼とは何もありませんからね)
 言い聞かせるように自分の脳に叩き込む。ドイツが不意にこちらに目線を向けた。
「どうなさいました」
「本当に何もないのか」
「貴方にしてはくどいですね」
 あまり追及されて不味いことを口走ると,取り返しのつかないことになりかねない。少し不機嫌な顔を浮かべて,遮ろうとしたけれども,そうか,と言ってドイツが俯いた。
 その拍子に前髪に溜まっていたらしい水滴が落ちる。
 ああ,もうこちらはこんなに好きなのに,隙を見せるのがいけない。
「何を引き出したいのですか」
 引き出してほしいのは自分の方であるくせに,大体人間こういうときは卑怯だから相手に押し付ける。前髪を下ろしたドイツの目線は随分と何かを企んでいるようで,ただそれはらしくなくて,少しだけ目を伏せている間に,ドイツがカルヴァドスを机に置いた。
「お前のよろこびを」
 弱いところなんて,全部知られていると思っていたのに。
 ため息を吐き出す。自分のほうが恋愛上手だと信じていた。だから何もかも隠し通せると思っていた。だけれどもこうお膳立てされては,ごまかしがきかない。
 オーストリアは目を伏せる。ドイツは立ち上がり,オーストリアが座っているソファーの背後に回りこむ。もう,ずっとこうして捕らえられている。せめてと思って,顔を上げると,少しだけ何か隠す男がするような,柔らかいのに目の光の消えない微笑をドイツが浮かべていて,ああ,そういえばこの男はサディストでした,とふとオーストリアは思い出した。
 それが逆らう理由になればよかったけれども決め手はなくて,諦めてオーストリアは肩の力を抜いて背後のドイツの胸に体を預ける。耳元でドイツが,誕生日おめでとう,と囁いて,その吐息が耳をくすぐるから思い切り顔が赤くなったことだけは分かった。

***

正確には一時間過ぎてるけど貴族様誕生日ssだという話ですよ。
サドイツとマリオネット貴族。ちょう,楽しかった。
タイトルは「悪魔とワルツを」より。
20081026