独善的で愛しい
「全部,貴方のせいです」
爪を切っている彼が,ふと何か呟くのが聞こえた。読んでいた本から顔を上げて,なんて,と聞き返そうとしたけれども,また,ぱち,と音がして彼が爪を切り落とすのが見えたから,声をかけるのをはばかってただ彼の横顔だけを見た。
「何かついていますか」
「何か言わなかったか」
視線を外さないまま彼が爪を切る姿を見ていると,諦めたようにオーストリアのほうから声をかけてきた。ドイツは当初自分の読書が邪魔をされた理由を思い出して,逆に尋ね返す。
「聞こえていなかったのですか」
オーストリアは諦めたようにため息をついた。
ドイツの方としては大事なことならばもう一度言え,と言おうと思ったが,その横顔が人の感情の機微に疎いらしい自分でも,今触れてはならない状態にあることだけはわかるくらいに憂いを含んでいたので,ああ,とだけ返事をしておいた。
「モーツァルトがね,弾けなくなったんですよ」
「もともとあまり弾かないだろう」
「彼の音楽は完璧ですからね,私も余力があるときで無ければ弾く気になりません。少しのミスが全てを壊してしまうでしょう」
そこまでモーツァルトの音楽性について考えたことの無いドイツは,曖昧に唸っておいた。オーストリアは弾く曲によって性格を変えたりするらしいが,その中でもモーツァルトはひどい完璧主義者にならなければならないらしい。譜面どおり弾くだけで世界が成立するらしいが,そこまではドイツには理解出来ない。目の前の問題は,それを弾けないと悩んでいるオーストリアをどうすれば片付くのかという話だ。
「自分だけが弾いて楽しい音など,愛の無い行為と同じです」
爪を端まで切り終えたらしい彼は,ふ,と爪に息を吐きかけて切り口の爪の粉を吹き飛ばした。こういうときは言うだけ言わせておいて同意すればいいか,とドイツはオーストリアを眺めながら考える。オーストリアはドイツが解していないらしいのを読み取ったのか,つまらないことを言いましたね,と小さく笑顔を浮かべた。
「誰かに心を奪われてしまうと,完璧主義者になんてなれないんです」
どうぞお構いなく,と呟く彼の本音は読めない。ただドイツは,そのオーストリアの意思を尊重して,前に彼がかの人の恋について話していたベートーヴェンを所望した。困ったように,わかってやっているんですか,と尋ねてきたオーストリアが,何をわかってほしいのかはわからないままだった。
***
なにがしたいんだ俺…!!
えっと,
モーツァルト=完璧主義者になりたいんだけど,ドイツに恋をしてしまったばかりにもうモーツァルトなんか弾けないんじゃないかと思ってる墺さんの,遠まわしな告白にドイツが気付いてくれない話でした。
解説を必要とする話を書かないで下さい。
20080821初出