燦々と慈愛の雨

だから貴方は子供なのですよ,お馬鹿さん


 何度も繰り返される同じ音を,オーストリアは台所で聞いていた。紅茶は何も爆発させること無しに入れられる。濃い香り,濃い味が欲しかった。外に降りしきる陰鬱とした雨はまるであの対岸の国のよう,濡れても気にならないとわかってはいるけれどもその不快感をやり過ごす術はオーストリアは持ち合わせていなかった。
 ドイツは今日は自宅で書類仕事をする日らしい。彼の上司はどうも自分を軽蔑しているらしく,まじめくさった顔で質問の意味をわかっていないドイツを通して何度失礼な質問を試みられたことかわからないが,すべてオーストリアの感嘆すべき理性によって持ちこたえられている。その彼が日毎ドイツに押し付ける仕事の質など高が知れている。オーストリアにとってそんな俗世間のことはもうどうでも良かった。はるか昔のこととしか思えないのだ。
 かくしてドイツは午前中に仕事を終えると,手持ち無沙汰になった。手持ち無沙汰な彼というものは見ていて面白い。やることがないのだということを全身を持って表現する。一人チェス台を引っ張り出して来ては,教則本と盤面を睨むこと一時間,諦めたようにため息をつく(教則本の手を破ることが出来なかったのだろう)。庭の手入れをしようかと腰を持ち上げたが,今日はあいにくの霧雨で作業に適した日ではない。ドイツはきっと,オーストリアほど雨に対して耐性がないわけではなかろうが,だからといって庭仕事を進んでする天気でないことも間違いない。家の中をうろうろ歩き回るその姿はまさに動物園の白くまだ。見かねてオーストリアがピアノの椅子を譲ったのだ。
「長いこと,弾いていないでしょう」
「何がいいだろうか」
「ショパンの雨だれがよろしいでしょう。私が犯した誤りは,あの方をお引止めできなかったことですから」
 かつて自分の庇護下にいた作曲家をオーストリアは挙げた。ドイツは窓の外を眺め,なるほどふさわしい,と一つ頷く。そして鍵盤に手を下ろそうとしたが,最初の音を一つ叩くと,おかしい,と言わんばかりに弾くのをやめた。
「どうしました」
「ショパンのタッチは昔から苦手だ。知っているだろう」
 知っているも何も,彼にピアノの手ほどきをしたのは自分だ。彼は最初の一音で鍵盤に全てを叩きつけられなくてはいやなのか,ショパンの類のメロディーに色をつけていく作風は苦手なのだ。性格が出るものだと思って密かにオーストリアは笑った。
 少し練習していて下さい,紅茶を入れてきます,と背を向けるオーストリアの背後で,ドイツは何度も同じ音を繰り返して叩く。ちらりと振り返ったその背中は幼かった頃と変わらなくて,オーストリアはまたこそりと笑いをかみ殺した。

 郷愁の念に駆られすぎていらない過去を抉り出さないように,きつい香りのアールグレイを選んだ。普段はこんな者は味音痴の対岸の国が飲むものだと思っているが,雨に閉じ込められた家の中で懐かしい背中を見ていると何が飛び出すかわからない。
「弾けそうですか」
「上手くつかめない」
「だから貴方は子供なのですよ。貸して御覧なさい」
 ティーポットと空のカップを二つ乗せたトレイをテーブルに置くと,オーストリアは椅子に座っているドイツの背後から立ったまま手を伸ばす。
 右手が叩くファの音は,造作ないように見えて深みを匂わせたい音だから,鍵盤にまず指だけを置いてふかく息を吐く。そして右手だけでメロディーをなぞり始める。ドイツはオーストリアの右手の運指だけをじっと見ていた。少し面映いけれども,演奏する者にとってはその視線はある意味愉悦でもある。
 4小節ばかりだけ弾くと,お茶が入りましたから少し休みましょう,と声をかける。鍵盤から離そうとした指をドイツの逞しい指が掴んだ。武器やペンのたこで節くれだったその手は,しかし,重いタッチの似合うピアノにふさわしい手だとオーストリアは思う。
「冷めてしまいますよ」
「やはりこの指でなくては駄目だ」
 オーストリアが目を見開くよりはやく手を離したドイツは,オーストリアにさぁ,お茶を頂こうと淡々と言った。その表情はいつも変わらない。知らない間に(見ない振りをしている間に)随分と仕草が大人びたなぁと思う。
 にこりと笑って,少しだけ紅潮する頬を気付かれないように願いながら,オーストリアははい,と答えた。

***

クラシックかぶれなのでオーストリアさんはハァハァしてたまりません。
いっぱい弾かせたい。
ネタ元「雨だれの前奏曲」フレデリック・ショパン。ポー→墺→仏と亡命ばかりの作曲家。
タイトルは今回も「悪魔とワルツを」から。
20080806初出